赤塚の街を歩く

kanazu362009-06-24

愛・天地人ウオーク実行委員会事務局から愛・天地人ウオーク
「義のコース」「愛のコース」の案内状が届いた。
「義のコース」は7月18日、南魚沼・坂戸城跡コース
19日、上越春日山城跡コース。
「愛のコース」は7月25日、与板・与板城跡コース、26日、岩室・天神山城跡コース。
20日「ようこそ赤塚・佐潟へ」のマップを片手に街中を歩いた。
マップには8箇所とその説明文が記されている。
芭蕉句碑
 佐潟公園脇に「芭蕉句碑」が建つ。
 俳句は芭蕉が赤塚の旅籠を訪れ読んだと伝えられている。
 句碑は赤塚の集落にあったものをこの場所に移した。
・屁(へ)っぷり坂
 江戸中期に、この坂が作られた。
 当時は現在よりも急斜面で、余りの傾斜で登ることができずに亡くなった人がいると
 伝えられている。
 屁が出るほど登るに切れなかったことから「屁っぷり坂」と呼ばれるようになった。
・石黒家墓地と渡辺嘉助の碑
 屁っぷり坂の途中に石黒家墓地と渡辺嘉助の碑がある。
 石黒家は江戸時代の大庄屋であった。
 墓の手前の石碑は、石黒家の家臣の子孫である渡辺嘉助の碑。
 石黒家の本当の墓地は、近くの大慈寺の裏にある。
・赤塚神社
 赤塚神社は,赤塚小学校の隣に鎮座する。
 祭神は伊邪那岐尊で、古くは「イザナギ社」と称した。
 明治の初めに村社となり、明治13年(1880)に「赤塚神社」と改称した。
 明治40年(1907)には宗像社、山祇社、富士浅間神社を合祀した。
 境内に開運稲荷が祭られている。
 毎年2回、境内で「赤塚太々(代々)神楽」が奉納され、赤塚では“村の祭り”と呼ば
 れている
 現在の社殿は、明治時代に再建されたもの。
大慈寺(だいじじ)
 現在の場所に石黒家の菩提寺として1604年に建てられた。
 鐘楼にある梵鐘は、太平洋戦争時に活躍した戦艦「陸奥」を引き揚げた際に、その鉄
 (通称:陸奥鉄)を溶かして造られた。
 現在では、この鐘を鳴らして戦没者を供養している。
・石黒家屋敷跡
 中原邸の隣に石黒家屋敷跡がある。
 石黒家は江戸時代の大庄屋であり豪農だった。
 敷地が街道に突き出し、さらに石垣の上に屋敷があった。
 これらのことから、石黒家の屋敷が目立つように設けられ、石黒家の権威を表していた。
・浄恩寺
 赤塚で最も歴史のある寺院で、鎌倉時代に創建された。
 もとは、角田浜にあったが後に赤塚に移った。
 その後一時期、佐渡に移ったが再び赤塚に戻った。
 約800年の歴史を持ち、中原家の菩提寺
 境内には、前本堂の鬼瓦が記念として保存されている。
・中原邸
 中原邸の敷地は約4000坪で、明治時代のフランス積のレンガ塀や裏庭には約2100坪
 の竹林がある。
 明治時代における赤塚を代表する大地主。
 明治11年(1987)9月16日、明治天皇北陸巡行の際、明治天皇が昼食をとられた。
 屋敷内には、「明治天皇行在所の碑」が建つ。
 4月12日「中原邸」は、一般公開された。
・番外:佐潟
 佐潟の面積は76ha。
 そのうち水域面積は43.6ha、平均水深は約1mで周辺の砂丘から湧き出る地下水から
 成り立っている。
 江戸時代から昭和中頃までは、ため池としての利用のほか潟岸は、水田として利用され
 ていた。
 1996年に国内で10番目にラムサール条約に登録され、現在は佐潟公園として保全
 管理されている。
 毎年、約3000羽もの白鳥が飛来するほか、これまでに207種の野鳥、634種の植物が
 確認されている。
・番外:ウェルサンピア
 赤塚の集落から少し離れた砂丘地の中にウェルサンピア新潟(旧新潟厚生年金スポーツ
 センター)がある。
 1991年(平成3)5月18日に開設し、2002年(平成14)4月1日、ウェルサンピア
 新潟と改称した。
 新潟の自然に囲まれ、宿泊、レストラン、大浴場「なごみの湯」、屋内プール、体育館、
 グランド、ゴルフ練習場など充実したスポーツ施設がある総スポーツ&リゾート施設。
 現在、独立行政法人年金・健康保険福祉施設整理機構」が施設の売却を進めている。
 入札(最低価額2億9200万円)は6月17日まで参加を受付、入札日は7月1日。
 ウェルサンピアは本年12月末まで営業する。
赤塚集落は昔の面影を残しながら新潟国際情報大学やウェルサンピア新潟などの新しい
施設と混在、越後線JR赤塚駅を中心に新興住宅地として新しい街に変身している。

屁っぷり坂を登る (イラストを模写)