大河ドラマ天地人幻の城「神指城」と   火天の城「安土城」

kanazu362009-09-13

豊臣秀吉が京都に建てた聚楽第に、後陽成天皇が出向く様子を
描いた屏風絵「御所参内・聚楽第行幸図屏風」が上越市の個人
宅で発見され、寄託を受けた上越市は、上越市立総合美術館で
9月12日から一般公開している。
屏風は6曲一双で左隻・右隻とも縦156センチ・横358センチ。
秀吉が乗る牛車が描かれた屏風は国内初で「重要文化財級」の作品だと評価されている。
今日13日放送の大河ドラマ天地人は、「家康への挑戦状」だ。
直江状」に激怒した家康は上杉討伐を宣言。
これが関が原の戦いの導火線に。
会津に国替えとなった景勝が「神指城(こうざし)」の築城を兼続に命じた。
安土城築城を描いた映画「火天の城」が昨12日から全国一斉に公開され観てきた。
・幻の城「神指城
 天地人ゆかりの旅「会津移封」に幻に終わった神指城のことが書かれている。
 若松城福島県会津若松市)から北西に4キロほど新潟に入って阿賀川福島県
 呼び名)が阿賀野川となる
 阿賀川のほとりに一本の大ケヤキ(高さ約25m・幹回り約13m・推定樹齢約600年)
 がそびえている。
 ここが上杉景勝直江兼続会津で築こうとした幻の城「神指城」の二の丸土塁。
 1598年(慶長3)、国替えで会津領主となった景勝は築城を計画した。
 普請が始まったのは1600年(慶長5)3月で兼続が指揮した。
 しかし、天下統一を狙う家康は、景勝の築城や武器の準備は上杉の謀反と疑い6月2日
 上杉討伐を宣誓、10万の大軍を引き連れ会津へ向かう。
 家康の会津出兵で神指城の工事は6月に中止された。
 1600年(慶長5)9月家康が関が原の戦いで勝利。
 家康と対立した景勝は1601年(慶長6)7月家康と会見、8月米沢30万石に減封を
 命じられ会津を去る。
 上杉家の会津統治はわずか3年7カ月で終わる。
 上杉家の米沢移封で神指城は完成を見ることなく幻の城と帰した。
 会津若松市の1967年の都市計画図では、「神指城」を「景勝城跡」と記している。
火天の城安土城」築城
 「火天の城」は9月12日全国一斉公開された。
 公開に先立ち「火天の城」の撮影状況をテレビで紹介していた。
 「火天の城」は山本兼一が戦国時代の名工・岡部又右衛を描き、第11回松本清張賞
 受賞した同名小説を映画化。
 主演は西田敏行、共演に大竹しのぶ椎名桔平福田沙紀ほか。
 1576年(天正4年)、尾張熱田の宮大工、岡部又右衛門は織田信長から、近江安土に
 五重の天守閣を持つ城の設計・建設を命ぜられた。
 「天高くそびえ立つ、天下一の城を作れ」。
 この物語は、立ちはだかる難問を岡部と周囲の人物たちの知恵と協力によって克服し、
 「安土城」として完成させるまでを描いたものである。
 感動する場面が次々と。(館内には涙ぐむ人も)
 ・名だたる番匠たちとの指図(図面)争いで、又右衛門のみが信長の意に反し「吹き抜け」
  にしなかった。
  信長の目の前で3体の城の模型に火を放つ。
  吹き抜けのない又右衛門の城はゆっくりと燃えていく。
  「又右衛門の天主なら、落城するにしてもゆるりと舞を楽しめるな、3年で建てろ」。
 ・木曽山中での樹齢2000年の檜の出会いと杣頭(そまがしら)の「大雨が降るまで待て。
  お主の夢にオラも賭けてみる」のつぶやきが。
 ・木曽檜で作った親柱の立ち上げ。
 ・蛇石の運搬と蛇石の転がり落ちによる悲劇と作事の一時中止。
  信長は「作事はお前たちの戦場。戦いに死はつきもの。情けは不要じゃ」と作事の再開を
  命ずる。
 ・大雨で親柱を支える周りの敷石が沈み、又右衛門は親柱の根元を4寸ほど切ることを
  決断する。
  職人や人足や女・子どもまでが手から血をにじませながら綱を引く。
  親柱が敷石から浮き上がりノコギリで引く、又右衛門が親柱の底をノミで削る。
  綱を引く、親柱はズシリと音を立て敷石の上に立った。
 天正7年(1579)安土城は完成する。
家康の会津出兵で神指城は築城途中で工事が中止され幻の城に。
安土城は完成した。
しかし、その3年後の天正10年(1582)6月2日、信長は明智光秀の夜襲を受け
本能寺で自刃、約2週間後の6月15日、何者かによって安土城は炎上する。
安土城は、現在石垣などの一部の遺構を残す幻の名城。
人間幻を追うことは夢があっていい・・・

映画「火天の城」を観る (イラストを模写)