曽川切れ記念碑と横田切れ水位標

kanazu362009-10-08

新潟市内も夜明けから雨音が強まり風も強くなってきた。
台風18号は今朝5時過ぎ愛知県知多半島付近に上陸した。
本州上陸は2007年9月の台風9号以来2年ぶり。
ここ10年で最強クラスの台風といわれる18号は、大雨と強風を
伴ない時速45キロで日本列島を縦断している。
新潟県内に最も接近するのは、8日の昼ごろで夕方までの24時間降水量は多いところで
200ミリに達する。
最大風速は海上で35m・陸上で25mの見込み。
大雨といえば信濃川流域で発生した「曽川切れ」や「横田切れ」を思い出す。
秋晴れの10月4日、「曽川切れ」や「横田切れ」を偲ぶため自転車で曽川切れ記念碑と
田切れ水位標を見に出かけた。
・曽川切れ記念碑と横田切れ跡
 黒埼町大野地区から信濃川に架かる信濃川大橋を渡り東詰めに出ると地曽川地区。
 橋から下流に約200m進むと左側に「横田切れ跡石柱」と「曽川切れ記念碑」が建つ。
 石柱と記念碑は1986年10月2日「ゆきしろ同人」が建立した。
 記念碑には曽川切れの様子が書かれている。
 「ああ おやげなや(かわいそうの意)曽川が切れた 抱いて寝た子も ながされた
 大正6年(1917)10月2日未明のことで正に“曽川が切れ”を象徴する口承である。
 連日のしのつく雨でふくれあがった大川端の水は河口に吐き切れず堀という堀は溢れて
 新潟市街路を数千戸が浸水していった」の書き出しで始まる。
 碑文には被害状況と石碑建立経緯が書かれている。
 ・台風による増水で堤防を突き破った濁流は、鳥屋野潟周辺一帯の一市一町五か村の
  亀田郷を修羅場とした
 ・浸水家屋数1000戸、収穫を目前に冠水した田畑3000余ヘクタール、その被害は
  量り知れないものがあった
 然し、これが大河津分水工事促進の口火となり大正11年(1922)8月完工、樋水を
 見るに至って信濃川下流域の洪水は終息した。
 以来69歳月水禍唯一の痕跡であったマキノ池も埋め立てられ都市化の波はこの災害を
 語る何ものも存しない変貌をもたらした。
 このとき、この郷土の歴史的な災害の一端を石に刻んで後人の教材として留める。
 と書かれている。
 「曽川切れ跡石柱」と「曽川切れ記念碑」は、少し離れた場所に建っている。
 決壊地点に大型の記念碑を建てるだけの場所がないため、決壊地点に小さな「曽川切れ
 跡石柱」を建て目印とした。
・宝光院と横田切れ水位標(新潟市槇尾)
 横田切れは、1896年(明治29)7月22日に発生した水害。
 数日間続いていた大雨により信濃川の水嵩が増大し、新潟県西蒲原郡横田村(旧:
 分水町への編入を経て、現:燕市横田地区)の堤防の部分約300mを主として、
 多くの堤防が決壊した。
 これにより新潟市関屋までの広い範囲が浸水し、被害面積は1万8000ヘクタール、
 床下・床上浸水が合わせて4万3600戸で、そのうち家屋流出は2万5000戸。
 宝光院の本堂の柱には1896年(明治29)7月22日夏に起きた信濃川の大洪水
 「横田切れ」で濁流により床上浸水したときの痕跡がくっきりと残る。
 山門左脇に、明治29年(1896)7月22日に起きた大洪水横田切れの水位を示す
 「横田切れ水位標」が建てられている。
・番外:西川の決壊場所(新潟市西区坂井)
 新潟市坂井輪公民館の廊下に昭和53年(1978)6月25日から降り続いた豪雨により、
 27日午前10時前に新潟市の新興住宅地を流れる西川が決壊したときの報道写真が
 飾られている。
 10月1日、NPO坂井輪地域学が主催する「旧村落坂井・須賀村現地探訪」で西川の
 決壊場所といわれる坂井橋付近を見学した。
 あれから31年、西川堤防はきれいに整地され遊歩道も整備されいた。
 現場付近には当時の決壊場所を偲ばせるものは何も残っていなかった。 
台風18号が日本列島をを縦断、各地に多くの爪痕を残す。
曽川切れ・横田切れの惨事や西川の決壊が、今も後世に語る継がれる。

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