清酒堀部安兵衛と清酒願人

kanazu362009-12-14

今日12月14日は赤穂浪士討ち入りの日。
忠臣蔵」で名高い堀部安兵衛を偲び、安兵衛の生誕地新発田
毎年12月14日に義士祭行われる。
安兵衛といえば酒がつきもので酒の話題も多い。
清酒堀部安兵衛清酒願人(ねがいびと)の話題が新聞に出ていた。
12月9日清酒願人を醸造する塩川酒造を訪ねた。
清酒堀部安兵衛(東京新宿区高田馬場
 堀部安兵衛とは、赤穂四十七士の中でも、名声の高い武士で新発田の生まれ。
 新発田藩士中山弥次右衛門の息子で、母方の祖母は藩祖溝口秀勝の娘という由緒
 正しい血筋でしたが、13歳のときに中山家が断絶。
 家名再興を志して江戸に出た安兵衛は、高田馬場の仇討ちによって名を挙げて、赤穂
 藩士堀部家の婿となり、討ち入りに加わって本懐を遂げた。
 地下鉄早稲田駅近くの「リカーショップ小倉屋」では1998年から安兵衛の名を冠した
 清酒堀部安兵衛」を販売している。
 瓶のラベルには、明治から昭和初期の児童文学者で小説家の巌谷小波による安兵衛が
 描かれている。
 リカーショップ小倉屋(1678年:延宝6・創業)には、安兵衛が高田馬場の仇討ちの
 助太刀に向かうい途中で店に立ち寄り酒を飲んだときに使ったという五合升が伝わる。
 升は現在近くの銀行の金庫に保管され店内には写真が展示されている。
 高田馬場の地名の由来は、江戸時代に大名の子弟や旗本が馬術の訓練や流鏑(やぶ
 さめ)を行った馬場を指し、東西に約650m、南北に約55mの広さ。
 1636年(寛永13)に造営され、この地域にかって越後高田藩主・松平忠輝の生母の
 庭園があったことから「高田馬場」と呼ばれたという説がある。
 豊島区によると、この地名は「高畑」という地名が転化したものだという。
清酒願人(新潟市西区内野:塩川酒造・12月9日)
 新潟市が開催する「水と土の芸術祭」で、新潟市西区内野の新川掘削が脚光を浴びた。
 願人とは、内野地域の人々が新川開削の出願者のことを親しみを込めて呼ぶ呼称。
 文化3年(1804)6月、中野小屋村の伊藤五郎左衛門は、養父の跡を継いで中野小屋 
 御蔵組割元に任じられた。
 同9年5月、伊藤五郎左衛門ら3人は連名で金蔵坂の掘割の掘削願いを長岡藩に提出
 した。
 長岡藩は、割元3人だけの願書を取り上げずさらに多くの関係村々に参加させるように
 指示した。
 割元3人は曽根組の庄屋たちに働きかけ願人17人(後に1人が加わり18人)の連名で
 長岡藩に金蔵坂の掘割の掘削願を再提出した。
 藩はこの願書を受理、文化14年(1817)幕府から許可が下り、文化15年(1818)
 2月長岡領16名(後に18名)・村上領5名の庄屋たちにより掘割工事が始まり、2年後の
 文化20年(1820)に新川は通水し完成した。
 新潟市西区高山の蓮久寺境内に新川開発創業者長岡領中野小屋村伊藤五郎左衛門
 など21集落の割元の名が書かれた供養塔が建立されている(長岡領16村・村上領
 5村)。
 供養塔には、「この新川の開発により三潟地方はじめ蒲原全郡は水害を免れ、水腐田は
 乾田となり豊穣の楽土と生まれ変わった。
 工費に投じた私財は回収できず多くの亡命の悲運に陥った・・・」と、その後の庄屋たちの
 悲惨な状況を伝える一文が刻まれている。
 地元の古老に話では、「長岡藩領の願人たちは資金不足から多額の借金をした。
 借金返済のため田畑や庄屋屋敷を失い、後に村を去った」と。
 地元の塩川酒造会社の製造部長塩川和広さんは「この歴史をもっともっと知ってほしい。
 先人の気概と努力に思いをはせ、未来を開きたい」と地元の酒米「越淡麗」を使い山廃
 仕込で純米吟醸原酒「願人(ねがいびと)」を造った。
 瓶のラベルは、新潟大学教育学部の橋本教授と研究室の学生さんたちがアイデアを結集
 してデザインした。
 事務所に清酒願人が飾られていた。
 酒は地元新潟市内と東京都内2か所の専門店限定販売だという。
赤穂浪士討ち入りの日、安兵衛を偲び先人の気概と努力に思いをはせ清酒堀部安兵衛
清酒願人を嗜んでは・・・

この酒が願人 (イラストを模写)