日本六三三制発祥の地と閉校・統合・ 再校
今日23日は新潟県下のほとんどの小学校が卒業式を迎える。
新潟日報の「碑は語る」で、関川村の関谷学園が戦後日本の
「六三三制発祥の地」と知り3月5日関川(旧関)小学校を訪れ
石碑を見てきた。
・日本六三三制発祥の地と石碑(関川村:関川小学校・3月5日)
・日本六三三制発祥の地と石碑
六三三制とは、小学校6年間 中学校3年間 高等学校3年間、 今行われている
学校制度の年数のことを6・3・3制とう。
現在の学校教育法が制定されたのが昭和22年3月で、この制度が日本全国で
行われ始めたのは昭和22年4月から。
それより前の昭和21年7月2日に、新教育制度の6・3・3制実験校として関谷学園
がスタートした。
昭和22年関谷学園を関谷村村立関小学校と改称(関小学校137年の沿革から)。
現在の関小学校の敷地に「日本六三三制発祥の地」の石碑があった。
石碑は、関川村村内「関小学校」「土沢小学校」「安角小学校」「女川小学校」「川北
小学校」の5校が統合され新しく4月1日から「関川小学校」として開校する。
石碑は関川小学校校門脇に移設されていた。
碑には、「関谷学園は太平洋戦争に敗れて民主日本が出発するに当たり、文部省教育
研修所の実験学校として全国に唯一実現したものであった。
そしてそれは独創の六三三の新体系をもって1946年7月2日この処に開校した。・・・
開校には、栃木師範学校教授・女子部長佐藤仙一郎(関川村安角出身)がこの村を
紹介、当時関川村・村長渡辺万寿太郎(豪農渡辺家の11代当)が研修所の要請を承認
した・・・・。
関川小学校の校門脇の庭園を歩いて驚いた。
懐かしい二宮金次郎の像が「報徳」と書かれた石台の上に建つ。
他にも向学心に燃えた青少年が働きながら学んだ学び舎を偲び同窓生が建立した、
県立村上高等学校関川分校(定時制高校)の記念碑「働学之碑」が建つ。
・閉校と統合
今年も多くの小学校が閉校・統合された。
・関川小学校(関川村):関小学校・土沢小学校・安角小学校・女川小学校・川北小学校」の
5校が統合
・愛宕小学校(旧村松町):村松東小学校と川内小学校の2校が統合
・両川小学校(新潟市江南区):割野小学校と酒屋小学校の2校が統合
・西三川小学校笹川分校(佐渡市):分校が閉校され本校に統合
・七名小学校(旧上川村):全校生徒8人の七名小学校と三宝分小学校の2校は上条
小学校に統合
・学校の復活再校
母校大町中学校は昭和34年9月統合で閉校し校名が消えた。
新校名「城北中学校」は、昭和34年9月旧高田市立大町中学校と旧高田市立春日
中学校が統合され発足した。
廃校となった大町中学校は、旧高田市立大町小学校と名前が変わった。
廃校となった春日中学校は、周辺の開発が進み、昭和58年城北中学校から分離し新生
上越市立春日中学校として復活再校された。
・番外:中古ランドセルが海を越え活躍
ランドセルを作っている会社「クラレ」では、日本の子どもたちが6年間大切に使った
思い出のランドセルで使わなくなったものを全国から集め、物が少ないアフガニスタンや
モンゴールにおくる事業を6年前から続けている。
これまでに海を越えたランドセルの数は約5万8000個。
六三三制が始まったのが昭和22年4月だから私の小学校入学と重なる。
「中古ランドセル海を越え活躍」の記事を読み、小学校入学の時に父から買ってもらった
布製のカバンを思い出した。
当時は終戦直後で物資が不足していた時代だった。
父が買ってくれたカバンは、米軍の兵士が背負っていた背嚢(はいのう)を加工したもの
だった。
カバンは6年間大事に使った。
思い出のカバンは最近まで保管していたが、平成15年上越市に生家と一緒に寄贈した。
ここが日本六三三制の発祥の地 (イラストを模写)