新潟市の戊辰戦争ゆかりの地(碑)巡り

kanazu362010-05-31

昨30日のNHKニュースで、戊辰戦争のとき寺泊沖で沈没した
幕府の蒸気船順動丸のシャフトなどが旧寺泊町役場荒町車庫で
展示公開されていると紹介していた。
幕末順動丸には勝海舟坂本龍馬も乗船し訓練に励んだと。
NHK大河ドラマ龍馬伝」も武市半平太の投獄・切腹、龍馬の再脱藩・暗殺近江屋事件新撰組の登場、そして幕末を揺るがした戊辰戦争へとドラマは急展開してゆく。
5月25日、新潟市中央区に点在する戊辰戦争ゆかりの地(碑)巡りに出かけた。
武市半平太切腹
 新国劇の芝居で、月形半平太が三条の宿を出るときの名セリフ
 「月さま、雨が・・・」「春雨じゃ濡れていこう」
 は、往年の多くの人が知る。
 月形半平太のモデルは、土佐の武市半平太(瑞山)瑞山だといわれる。
 作家の秋山香乃さんは、5月24日の新潟日報「晴雨計」の中で、我が国でもっとも 珍しい切腹をした男は誰か。
 それは、文献に残っている限りで言えば、土佐の武市半平太(瑞山)である。
 彼は「おおよそ割腹は一文字かき切るものだと思う者もいるけれど、これに十文字と 三文字とに刃を画する方法がある」と言って、腹を横に三回にわたってかっ捌いて死 んだ。と書いている。
・龍馬暗殺と近江屋事件
 近江屋事件とは、幕末の慶応3年11月15日(1867年12月10日)に坂本龍 馬と中岡慎太郎が京都河原町近江屋井口新助邸において暗殺された事件のこと。
戊辰戦争(ぼしんせんそう)
 戊辰戦争とは、慶応4年:明治元年(1868)−明治2年(1869)に、薩摩  藩・長州藩らの西南諸藩(薩長土肥)が明治天皇を擁立して王政復古にて明治政府を 樹立し、江戸幕府側(旧幕府勢力・彰義隊会庄同盟・榎本政権を含む)及び奥羽越 列藩同盟と戦った日本の内戦。
慶応4年(明治元年)の干支が戊辰だったことからこの名で呼ばれる。
新潟市中央区に点在する戊辰戦争ゆかりの地(碑)巡り
 ・金鉢山公園(新潟市中央区関屋昭和町・5月25日)
  関屋保育園の奥に公園が見えた。
  入り口に「金鉢山公園」と看板が出ている。
  石段を上ると「東郷神社遙拝場の碑」が建てられている。
  関屋金鉢山は、北越戊辰戦争時の新政府軍の本拠地で戊辰の役の古戦場跡といわれ  る。
・戊辰公園:色部長門君遺念碑(新潟市中央区関屋田町・5月25日)
  関屋田町交差点新潟高校前の入り口に「戊辰公園」がある。
  公園内には、伯爵上杉憲章篆額した「色部長門君追念碑」が建つ。
  旧幕府軍の奥羽越列藩戊辰公園同盟に列した米沢藩家老の色部長門による功績と
  慰霊を込め、討死した地に追念碑を建立し、その史実を後世に残す為に戊辰公園
  として保護されている。
・遺跡:色部長門遺念碑と米澤藩戦死四士の墓(新潟市中央区関屋本村・5月25日)
 念仏寺の境内に「遺跡:色部長門遺念碑」と「米澤藩戦死四士の墓」がある。
 戊辰の役 米澤藩戦死四士の墓
 慶応4年7月(9日明治と改名)色部長門の配下にありて西軍(いわゆる官軍)と戦
 い29日付近の地に死す、関屋本村の住民これを念仏寺内に葬る。
・戊辰役殉難者墓苑(新潟市中央区西船見町:護国神社敷地内・5月25日)
 戊辰役殉難者墓苑が護国神社の敷地内にある。
 大鳥居をくぐり参道を本殿に向かって進むと左側に戊辰役殉難者墓苑がある。
 墓苑入口に「戊辰新潟戦争」と書かれた看板が立つ。
 慶応4年(明治元年鳥羽・伏見の戦いから始まり、やがて全国各地に広がった戊辰 戦争は、新潟市も例外なく激しい戦場と化した。
 西軍(薩摩、長州ら新政府軍)と東軍(米沢、会津、庄内)の両軍に多数の戦死者が 出て尊い命が失われた。
 1868年(明治元年)の10月に新政府軍(西軍)側戦死者の墓碑を常磐ケ岡(旧 新潟大学本部の跡地)に設置され、戊辰戦争戦没者415柱を祀って社殿を造立し 新潟招魂社として祭られた。
 1941 年(昭和16)7月新潟招魂社から護國神社と改称し、1945年(昭和 20年)5月に西船見町に移転、1985年(昭和60)旧新潟大学本部跡地から東 軍戦死者のものと思われる92体分の遺骨が発見され、護國神社敷地内にある「戊辰 役殉難者墓苑」に埋葬されて、19877年(昭和62)に「戊辰役東軍慰霊碑」を 建てた。
 墓苑には、戊辰戦争で戦死した薩藩・芸藩・高鍋藩・大洲藩御親兵十津川隊・村松 藩など各藩の隊士の名前が刻まれている。
新潟の街を歩き新潟市内にもたくさんの戊辰戦争ゆかりの地があることを知った。

ここにも戊辰戦争ゆかりの碑が (イラストを模写)