弥彦の街を歩き夜の弥彦山に登る
きょう新潟明訓が甲子園で報徳学園とベスト4を懸けて戦う。
優勝まであと3勝。
新潟明訓高校のルーツが巻町にあった。
夏恒例の「弥彦山夜景と星空クルーズ」がことしも8月7日から
始まった。
8日、弥彦の街を歩きロープウェイに乗り弥彦山頂から美しい夜景を楽しんだ。
・弥彦の街を歩く
・弥彦神社
弥彦山の麓に位置し、弥彦山全体を神域とする。
式内社(名神大)で越後国一宮。
・明治天皇行在所跡
明治天皇が北陸御巡幸の際、弥彦では五十嵐盛厚宅の奥庭に行在所が設けられれ宿泊された。
建物は明治45年(1912)の弥彦大火で焼失し、現在は庭園が築かれ跡碑が建つ。
・宝光院と婆々杉
・宝光院
創建は建久6年(1196)に源頼朝の発願により僧禅朝が開基したのが始まりと伝えられている。
当初は竜池寺と称しましたが弥彦神社の別当である神宮寺が繁栄すると次第に衰退し、末寺である宝光院だけを残し廃寺となった。
宝光院も明治時代初頭に発令された神仏分離令により一時衰退した後現在地に再興された。
本尊は元神宮寺の本尊だった阿弥陀如来像で、寺宝に毘沙門天像(嘉暦3年作、檜材、寄木造り、像高:187?−新潟県指定重要文化財)がある。
境内は元禄2年(1689)に松尾芭蕉と曽良が奥の細道行脚の際宿泊した場所とされ芭蕉碑が建立されてる。
・婆々杉
境内裏には"弥彦の婆々杉"と呼ばれる推定樹齢1千年、樹高40m、幹周10mの巨木がある。
・妙多羅天女と婆々杉伝説
今から900年以上前の承暦3年(1079)弥彦神社造営の際、上梗式奉仕の日取りの前後について、鍛匠(鍛冶屋)黒津弥三郎と工匠(大工棟梁)の争いとなった。
これに負けた弥三郎の母(一説に祖母)は無念やるかたなく、恨みの念が昂じて鬼となって、形相ものすごく雲に乗って飛び去った。
それより後は、佐渡の金北山、蒲原の古津、加賀の白山、越中の立山、信州の浅間山と、諸国を自由に飛行して悪行の限りをつくし、「弥彦の鬼婆」と世人に恐れられた。
それから80年の歳月を経た保元元年(1156)、当時弥彦で高僧の評判高かった典海大僧正が弥彦の大杉の根元に横たわる一人の老婆を見つけ、悪行を改め、本来の善心に立ち返るよう説得し、さらに秘密の印璽を授け「妙多羅天女」の称号を与えたところ改心した。
その後は神仏、善人、子どもの守護に尽くしたので、村人はこの大杉を「婆々杉」と呼ぶようになった。
・明訓校の址
明訓高校との関係
・1882年(明治15年3月):大橋一蔵先生により鈴木彦雄宅の醤油倉の2階を校舎として弥彦明訓校が発足
・1883年(明治16年2月):弥彦競輪場の北西に移転、西蒲中学校を合併し県立中学となる
・1888年(明治21年):県立廃止となり、改めて私立明訓校として存続した
・1895年(明治28年):廃校
・1942年(昭和17年):新潟の地に明訓中学として再起、現在の明訓高校に受け継がれる
いま甲子園で活躍している新潟明訓高校の発祥の地が弥彦だったとは。
・弥彦駅
大正6年(1917)建設。
駅舎は弥彦神社の本殿を模した朱色の寺社造りで全国でも珍しい駅。
・弥彦山夜景と星空クルーズ
8月7日から15日まで弥彦山頂からの夜景、更に満点の星空を楽しむことができる。
期間中山頂までは弥彦山ロープウェイの夜間特別運転が始まった。
2年前にも一度登ったが、8日夜、再びロープウェイに乗り「弥彦山夜景と星空クルーズ」を楽しんだ。
夜景を楽しむ人たちでロープウェイ乗り場には多くの人が。
午後7時20分発のロープウェイに乗った。
乗車時間は約5分、後方窓から眼下に新潟や弥彦の街の灯が見える。
係員の誘導で山頂展望台に上った。
展望台からは360度の夜景が。
日本海に浮かぶ漁り火は、巻漁港の漁船。
その左に薄っすらと見える灯りが佐渡の町並みの灯り。
左側の奥の院の先が寺泊の町。
正面が岩室と弥彦の街。
左側が旧新潟市、右が吉田・燕・三条、その先が下田。
暗闇の中に街の灯りが帯のように幅広く続いている。
「上空をご覧下さい」と。
パノラマタワーの上に北斗七星・多宝山の上にカシオペア・展望台の真上には
白鳥座・テレビ塔の上には乙女座が輝いている。
「奥の院までは約15分で行けます。ご希望の方は、懐中電灯が用意してあります」と。
暗闇の中ライトを照らし奥の院まで行った。
日中は弥彦の街を歩き夜はロープウェイに乗り弥彦山から夜景と星空クルーズを楽しんだ。
優勝まであと3勝 (イラストを模写)