明和義人祭と絵巻物展
明和騒動を多くの人に知ってもらおうと地元の「明和義人祭
実行委員会」が8月24日新潟市の上古町で「明和義人祭」を
開催した。
3年目の今年は、祭りを盛り上げるため「明和騒動絵巻物」展が
開催されていると知り20日、絵巻物展を見、明和義人ゆかりの地古町周辺を散策した。
・明和義人
江戸時代の明和4年(1767)、財政悪化に苦しむ長岡藩は、湊を運営する新潟町民に多額の御用金を収めるように命じた。
不景気で支払えず、人々は支払いを延ばしてもらおうと話し合いをした。
長岡藩では、町民たちが勝手に集まって悪いことを計画していると首謀者の涌井藤四郎を捕まえ話し合いに参加した人たちを家に閉じ込めた。
これに町の人たちが反発して一揆を起こした。
しかし、藤四郎は「おかみにはむかうな」と人々を押し留めた。
新潟町の人々は藤四郎を新潟町民の代表とする体制を整え、一揆後2カ月間にわたり 町の人たちが自ら組織を作って町政を運営した。
その後、長岡藩は、事件を招いた涌井藤四郎と打ち壊しに深く関わったとされた岩船屋佐次兵衛を打ち首にした。
新潟町の人々は、藤四郎たちを町の為に働いたのに理不尽に殺された人々と考え、ひそかにまつり、この事件を町の誇るべき歴史として後世に伝えた。
・明和義人絵巻物展(新潟市中央区:上古町・8月20日)
上古町商店街の空き家を利用し9枚の明和義人「絵巻物」が両側に飾られている。
巻物は新潟デザイン専門学校の学生が描いた。
1:時は16世紀後半(涌井藤四郎・岩船屋佐次兵衛・お雪は・・・)
2:みなと町新潟は北前船で栄・・・
3:本庁の呉服商の涌井藤四郎・・・
4:藤四郎の相談は・・・
5:9月16日の深夜・・・
6:手に手に斧や鳶口を持った・・・
7:翌日から藤四郎は総代として・・・
8:この時代にまさに世界の歴史に・・・
9:1970年8月、藤四郎と佐次兵衛は明和騒動の首謀者として打ち首獄門にしょせられました。町民の中に芸妓お雪が・・・
・明和義人之顕彰碑(新潟市中央区:白山神社・8月20日)
長岡藩は、事件を招いた涌井藤四郎と打ち壊しに深く関わったとされた岩船屋佐次兵衛を打ち首にした。
しかし、藤四郎たちを義民、義人と呼ばれるようになり、昭和3年(1928)白山公園に「明和義人之顕彰碑」が建てられた。
・明和義人ゆかりの地古町周辺
・口之神社(古町)
愛宕神社境内に境内社として「口之神社」が祀られている。
解説板には、祭神は、千葉の義民佐倉惣五郎で新潟の明和義人の関係者も合祀されていると。
・長照寺(西掘:三越裏)
涌井藤四郎の墓がある。
墓は、住職に案内していただいた。
・光林寺(西掘:三越裏)
長岡藩の鎮圧部隊が滞在。
・浄泉寺(西掘)
涌井家の菩提樹であったと言われている。
案内板等はない。
・真城院(西掘)
明和義人涌井藤四郎を供養する為に建立されたと伝わる二十六夜塔がある。
山門をくぐると左側に、二十六夜塔はあるが、特に説明文は無い。
・宝亀院(西掘)
岩船屋佐次兵衛の首をもらい受け、葬礼をした。
岩船屋佐次兵衛の墓がある。
住職から「昔は涌井藤四郎の墓もあったが、今は風化して無い。しかし岩船屋家の末裔の墓は今もある」と墓を案内してもらった。
墓石には、「岩船屋家之墓」と書かれている。
明和義人祭実行委員会の人たちは、明和義人祭と絵巻物展を通じ「明和騒動」を知ってもらい上古町の活性化につなげたいと。
新潟の町にも義人の話が (イラストを模写)