越後生まれで活躍したビール・ワイン・酒の先駆者たち
夏も終わる。
猛暑が追い風でビール類の出荷量が伸びている。
中でもアルコール抜きビールが絶好調だという。
7月28日長岡市の与板と栃尾のビアガーデンで、“ビールの
先覚者”をたたえる「ザ・対決与板と栃尾」が開催された。
興味を持ち越後生まれで活躍したビール・ワイン・酒の先駆者たちを調べた。
・猛暑でビール類出荷量伸びる
7月11日ビール大手各社が、発泡酒と第三のビールを含みビール類の7月の出荷量を発表した。
前年比2.1%増の4716万ケース(1ケースは大瓶20本分)。
内訳をみると、ビール・発泡酒は前年割れたが、低価額の第三のビールだけが大きく伸び16.9%増となった。
長引く景気低迷で消費者の低価額志向が続きビールや発泡酒が苦戦している。
・アルコール抜きビール絶好調
キリンビールは8月13日、アルコールを含まないビール風味飲料「フリー」の年間販売目標を、今年1月の当初予定(430万ケース)から約2割増の510万ケースに引き上げたと発表した。
8月3日に、糖質やカロリーもゼロという「オールフリー」を売り出したサントリーは、需要に生産が追いつかなくなり、9月上旬まで一時、販売休止を強いられている。ビール風味飲料は車を運転する人たちに人気で、猛暑の追い風も受けて市場が急拡大している。
2009年4月に発売されたキリンの「フリー」は、高速道路のパーキングエリアやゴルフ場などにも販路を広げたことで、販売を伸ばした。今年7月末の販売店舗数は09年末比で4割増えた。
サッポロビールの「スーパークリア」の7月販売量も、前年同月比で2・5倍となった。8月3日に「ダブルゼロ」を発売したアサヒビールも、すでに年間目標の25%を売り上げたという。
・ビールの先駆者中川清兵衛と外山脩造
・中川清兵衛(サッポロビールの前身)
1856年三島郡与板町(現長岡市)中川津兵衛の長男として生まれる。
明治6年ドイツに渡りビール醸造技術を学ぶ。
帰国後、北海道でビール製造を始め、明治10年6月日本で初めてビール醸造に
成功した。
記念館等はないが、清兵衛の偉業を称え中川津兵衛家の跡地に「中川清兵衛生誕碑」が建てられている。
・外山脩造(現アサヒビール)
・1842年(天保13)越後国小貫村(旧栃尾市小貫)の庄屋の長男として生まれる
・1887年(明治20)大阪の酒造業鳥井駒吉らと共に純国産ビールづくりへ
・1889年(明治22)有限責任大阪麦酒会社設立
・1891年(明治24)吹田工場完成、稼動開始
・1892年(明治25)アサヒビール発売、半年後には製造が追いつかないほどの人気に
・ワインの父川上善兵衛
「よいワインは、よいぶどうから」と、所有地の岩の原丘陵地を開墾し、よいぶどう作りに生涯を捧げた。
生家北方の地には、川上善兵衛資料館が建てられている。
・慶応4年(1868年)頸城郡北方村の地主の家に生まれる
・明治20年(1887年)東京下谷の小沢善平に新しいぶどうの品種や接木の方法
についての教えを受け、山梨でぶどう栽培の初歩を学ぶ
善兵衛が葡萄業を志したのは、植え付けを始めてから収入を得るまでの年数が早いことや、ワインの醸造法は失敗例が少ないため、外国産の苗木を日本の土壌で育てれば、外国から搬入される高級ワインに負けないくらいよい国産のワインができるであろうと考えたからでした。
・明治33年(1900年)33歳の若さで新しく誕生した高士村の村長となり、財政の安定、教育の振興、交通の確保に取り組む
・明治35年(1902年)皇太子殿下(のちの大正天皇)御一行が、岩の原葡萄園にお立ち寄りになられ、葡萄園とワイン工場を見学された
・昭和9年(1934年)「寿屋(現サントリー(株))と共同出資で「株式会社寿葡萄園」を設置し、昭和11年に「株式会社岩の原葡萄園」と改称した
・昭和19年(1944年)中頸城郡高士村の自宅で76歳の生涯を終える
いま作家の小関智弘さんが書いた日本ワイン葡萄の父川上善兵衛「越後えびかずら維新」が地元上越市でベストセラーになったいる。
・酒の博士坂口謹一郎
応用微生物の世界的権威の「酒の博士」として知られる坂口謹一郎博士。
坂口謹一郎は、頚城村の庄屋の家系で、1897年高田市稲田(現上越市)で生まれる。
応用微生物学者の世界的権威者。
昭和42年文化勲章を受章。酒博士として親しまれている。
生誕の地上越市頚城区鵜ノ木には、坂口記念館が建てられている。
記念館には、「酒杜り館」「楽縫庵」「留春亭」がある。
雪深い雪国越後の里からビール・ワイン・酒の先駆者たちが誕生していたとは。
友とビール・ワイン・酒を酌み交わし先覚者たちの思いに浸ろう。
今日はどれを飲もうかな (イラストを模写)