木津集落を歩く

kanazu362010-09-15

新潟市江南区の木津集落が、旧木津小学校体育館のワーク
ショップと木津棧俵(サンバイシ)神楽で沸いた。
9月4日木津集落を歩き、旧木津小学校体育館のワークショップ
に参加後、賀茂神社に奉納された棧俵神楽と木津切れの跡石碑
を見た。
・旧木津小学校体育館ワークショップ(新潟市江南区:旧木津小学校体育館・9月4日)
 新潟市江南区木津の木津小学校は1976年に廃校となり、残っている旧体育館も2011年度に取り壊しが予定されている。
 9月4日、館内の床や壁を写し取るワークショップが行われたので参加した。
 取り壊し前に「木津小学校の記憶」と題し、B5版の用紙を床の木目や壁の傷などの場所の上に貼り上から色鉛筆でこすって紙に模様を写す「フロッタージュ」という技法で行う。
 係員から渡された数種類の色鉛筆を使い体育館の床を色鉛筆でこすって模様を映し出した。
 参加者の制作した作品は床一面に並べ、将来的には取り壊される予定の体育館の記憶作品として残すという。
 4日間のイベント期間中に、卒業生や地元住民ら延べ約900人が館内の床や壁を写し取るワークショップ参加し1000枚を超える作品が完成した。
・木津まつり棧俵神楽の奉納(新潟市江南区:木津賀茂神社・9月4日)
 9月4日の木津まつりで賀茂神社に「棧俵神楽」が奉納されたので見学した。
 ・棧俵神楽の由来
  木津地区では昔から、上のお宮「諏訪神社」、中のお宮「日吉神社」、下のお宮「賀茂神社」の三つのお宮で同じ日にお祭りを行っていた。
  昔はお祭りに使う「獅子」がなかなか買えなく、「獅子」持っていなかった上のお宮と下のお宮では、唯一「獅子」を持っている中のお宮に借りるかたちで祭典を執り行っていた。
  日吉神社には古くから伝わる立派な大神楽がある。
  地元の古老の話によると、この神楽が登場し、滑稽な舞を始めたのは110年ほど前の明治30年頃といわれる。
  ある秋祭りの晩にお宮に集まり、御神酒をいただいて元気を出した若者の1人がやおら立ち上がって、当時の農家であればどこでも見られた、古棧俵を2枚と、鶏小屋から蚊帳を持ってきて、宵宮参りの大勢の氏子を前に威勢よく滑稽な舞をやってのけ、みんなを爆笑させたのが始まり。
  この神楽は、稲ワラを編んだ棧俵(サンバイシ)を2つ合わせて大きな口とし、ナスの目に、カボチャの鼻、熊桿(クマビエ)を髪として、歯は唐竹を割り組み合わせて金紙を貼り付けて作られた見事なもの。
  毎年9月初めの木津まつりで棧俵神楽が奉納され、その後、近くの小阿賀野川に流される。
・木津切れの跡石碑(新潟市江南区:木津・9月4日)
 旧木津小学校体育館から賀茂神社に向かう途中に「史蹟木津切れの跡」の石碑が建つ。
 碑文の書き出しは「この地に水戸口とい一集落ある・・・」と。
 記録に残るだけでも、宝永4年(1707)以来大正15年に至るまでに、実に13回にも渉り小阿賀が破堤、その大部分がこの地に集中した。
 いらいこの地は、いつの頃からか水戸口と呼ばれ、厄除け祈願に手作りの神楽を奉納した。
 いわゆる棧俵神楽発祥の地でもある。
 ・宝永4年(1707)木津:二本木切れ ・享保8年(1723)木津:沢海切れ
 ・元文2年(1736)木津:沢海:二本木切れ ・安永8年(1779)木津切れ
 ・天明3年(1783)木津切れ ・寛政8年(1796)木津:沢海切れ
 ・文政3年(1820)木津切れ ・文政5年(1822)木津切れ
 ・安政6年(1859)木津切れ ・明治29年(1896)木津切れ
 ・大正2年(1913)木津切れ ・大正12年(1923)木津切れ
 ・大正15年(1926)木津切れ 
 特に、大正2年(1913)の木津切れの被害はとても大きく、賀茂神社の下手から240m余りの幅で小阿賀野川の堤防が切れてた。
 この木津切れで、水戸口の集落では家が20軒ほど流され、残った家はわずか3軒、死者は3人、馬も4頭死んで、米の収穫にも大きな被害が生じ、悲惨極まる水害だった。
  (江南区役所だよりから抜粋)
木津集落を散策、旧木津小学校体育館のワークショップと賀茂神社の棧俵神楽と木津切れ跡の石碑などを見、往時を偲んだ。

木津集落を歩く (イラストを模写)