萬代橋展と破堤(切れ)跡めぐり

kanazu362010-09-21

萬代橋は、新潟市中央区信濃川に架かる国道7号、国道8号、
国道17号、国道113号、国道350号の道路橋梁。
1929年に竣工した現橋梁(3代目)は2004年7月、国道の
橋梁としては日本全国で2例目となる、国の重要文化財に指定
されている。
萬代橋展を見学後、信濃川阿賀野川の破堤(切れ)跡めぐりに出かけた。
萬代橋展(新潟市中央区:県立図書館・9月10日)  
 萬代橋は,信濃川にかかる六連アーチの橋で,新潟市街では数少ない「絵になる」場所。
 1886年に竣工した木造の初代萬代橋(よろづよばし)は、橋幅は7.2mしかなかったが、橋長は782m(現在の2.5倍)あった。
 信濃川が広かったためである(旧萬代橋東詰めの場所に、古い欄干を摸した記念碑が建っている。
 当初は個人所有で通行料が必要であったが、のち新潟県が買い取った。
 この初代萬代橋は1908年の新潟大火の類焼で失われ、翌年に復元された(二代目萬代橋)。
 現在の鉄筋コンクリート橋(三代目)は1929年の完成で橋長306.9m、橋幅220m。
 会場には、
 ・萬代橋の新旧長さくらべ ・萬代橋架設出願当時の図面 ・萬代橋の絵葉書
 ・初代萬代橋の頃の新潟市(明治3年辻速図)
 などが飾られている。
・破堤(切れ)碑めぐり
 ・横田切れ碑(旧分水町横田地区・9月11日)
  横田切れはとは、1896(明治29)年7月22日に発生した水害。
  数日間続いていた大雨により信濃川の水嵩が増大し、新潟県西蒲原郡横田村
  (旧分水町横田地区)の堤防の部分が約300mに渡って決壊した。
  これにより新潟市関屋までの広い範囲が浸水し、被害面積は18000ヘクタール、床下・床上浸水が合わせて43600戸で、そのうち家屋流出は25000戸であった。
  洪水による死者は43名だったが、水が引かず何か月間も悪水に悩まされ、伝染病や
  疫病などの発生で数千人の人が亡くなっている。
  破堤場所には、「横田破堤の跡」の標柱と「横田破堤記念碑」が建ち付近は横田切れ公園として整備され東屋が建ち、横田切れの説明・ 古文書からの絵・横田切口説きなどが飾られている。
  横田切口説きは「洪水さわぎ やれやれみなさま洪水さわぎ 山の果てから海ぎわまでも田畑そうたい家屋も水でぬれて流れてみる目もあわれ・・・」と始まる。
 ・曽川切れ記念碑と横田切れ跡(新潟市江南区楚川・9月11日)
  黒埼町大野地区から信濃川に架かる信濃川大橋を渡り東詰めに出ると楚川地区。
  橋から下流に約200m進むと左側に「横田切れ跡石柱」と「曽川切れ記念碑」が建つ。
  石柱と記念碑は1986年10月2日「ゆきしろ同人」が建立した。
  記念碑には曽川切れの様子が書かれている。
  「ああ おやげなや(かわいそうの意)曽川が切れた 抱いて寝た子も ながされた・・・
  大正6年(1917)10月2日未明のことで正に“曽川が切れ”を象徴する口承である。
  連日のしのつく雨でふくれあがった大川端の水は河口に吐き切れず堀という堀は溢れて新潟市街路を数千戸が浸水していった」の書き出しで始まる。
  碑文には被害状況と石碑建立経緯が書かれている。
 ・木津切れの跡石碑(新潟市江南区:木津・9月4日)
  旧木津小学校体育館から賀茂神社に向かう途中に「史蹟木津切れの跡」の石碑が建つ。
  碑文の書き出しは「この地に水戸口とい一集落ある・・・」と。
  記録に残るだけでも、宝永4年(1707)以来大正15年に至るまでに、実に13回にも渉り小阿賀が破堤、その大部分がこの地に集中した。
  いらいこの地は、いつの頃からか水戸口と呼ばれ、厄除け祈願に手作りの神楽を奉納した。
  ・宝永4年(1707)木津:二本木切れ ・享保8年(1723)木津:沢海切れ
  ・元文2年(1736)木津:沢海:二本木切れ ・安永8年(1779)木津切れ
  ・天明3年(1783)木津切れ ・寛政8年(1796)木津:沢海切れ
  ・文政3年(1820)木津切れ ・文政5年(1822)木津切れ
  ・安政6年(1859)木津切れ ・明治29年(1896)木津切れ
  ・大正2年(1913)木津切れ ・大正12年(1923)木津切れ
  ・大正15年(1926)木津切れ 
  特に、大正2年(1913)の木津切れの被害はとても大きく、賀茂神社の下手から240m余りの幅で小阿賀野川の堤防が切れてた。
  この木津切れで、水戸口の集落では家が20軒ほど流され、残った家はわずか3軒、死者は3人、馬も4頭死んで、米の収穫にも大きな被害が生じ、悲惨極まる水害だった。
  (江南区役所だよりから抜粋)
・番外:宝光院の横田切れ痕跡と水位標(新潟市西区槇尾:宝光院・9月11日)
 横田切れは、1896年(明治29)7月22日に発生した水害。
 数日間続いていた大雨により信濃川の水嵩が増大し、新潟県西蒲原郡横田村(旧分水町への編入を経て、現燕市横田地区)の堤防の部分約300mを主として、多くの堤防が決壊した。
 この破堤で新潟市関屋までの広い範囲が浸水し、被害面積は1万8000ヘクタール、床下・床上浸水が合わせて4万3600戸、そのうち家屋流出は2万5000戸。
 宝光院本堂の柱には、明治29年7月22日に起きた信濃川の大洪水「横田切れ」で濁流により床上浸水したときの痕跡がくっきりと残る。
 山門左脇に、明治29年7月22日に起きた大洪水横田切れの水位を示す「横田切れ水位標」が建てられている。
萬代橋展を見、信濃川阿賀野川の破堤(切れ)跡めぐりで洪水の恐れしさを知った。

ここが破堤跡 (イラストを模写)