豪農と豪商めぐり

kanazu362010-09-28

実りの秋、今年も米は豊作である。
豪農と豪商めぐりに出かけた。
豪農
 ・伊藤家(新潟市江南区沢海:北方博物館・9月5日)
  9月5日、沢海の伊藤家で「秋山好古と横越の人々」と題し歴史講演会開催された。
  講演終了後、久し振りに豪農の館「北方文化博物館」を見学した。 
  江戸中期、一介の農家から身を起こし、代を重ねて越後随一の大地主となったのが旧横越村沢海の伊藤家。
  その「豪農の館」は、1946年(昭和21)に戦後初の私立博物館として公開され、現在の北方文化博物館に。
  敷地8800坪、建坪1200坪、母屋の部屋数65を数える純日本式住居。
  多数の古美術品が収蔵されている集古館や回遊式庭園がある。
  敷地の周りには、土塁を築き、塀を建て濠をめぐらしてあり、街道の門柱から広がる数10mの前庭、土蔵造りの門、総欅造り唐破風の大玄関などは、まさに「豪農の館」にふさわしい豪壮さを備える。
 ・中原邸(新潟市西区赤塚・4月11日)
  資料によれば中原家の家紋は「投網の紋」。
  先祖が投網を投げたところ網に仏像がかかったとかで、漁業や水運業(船を使った商売)で財を成したというところから家紋にしたと。
  江戸時代には、この近辺を通る際、まわりに大名が宿泊できる場所がなかっため、時々臨時に大名が宿泊するようになった。
  江戸末期(1845年)中原文蔵の子として中原藤蔵久成が生まれた。
  久成は幕府に献金を行い、その功績として名字帯刀を許された。
  久成は乳の潟という潟を開拓、開発された新田が現在の藤蔵新田。
  明治初期ころの中原邸は、敷地全体で3342坪だったが現在は約4000坪の敷地。
  邸中に入ると「帳場」「上段の間」「二の間」「三の間(鶴の間:すべてのふすまに鶴が描かれている)」がある。
  上段の間は明治天皇が座った場所で、部屋に同行した土方久元が書いた「明治天皇
  御小憩所旧跡」の額が掲げられている。
・豪商
 ・別荘楽山亭(旧与板町長丁・9月11日)
  明治時代の豪商が与板町に与板に建てた別荘「楽山亭」が無料公開された。
  1892年(明治25)に大坂屋三輪家第11代当主三輪潤太郎(実業家、衆議院議員も務めた)によって自邸裏手の丘陵地に建てた茶室風の別荘である。
  三輪家は江戸時代には大坂屋の屋号で信濃川の河川交通を利用した廻船問屋であり、米・塩・海産物を京都や大阪で販売し帰りの荷で反物・薬・書籍等を運搬する事で栄え、越後屈指の豪商としてその名が知られている。
  また、三輪家は当主の潤太郎の実弟が洋画家の三輪越龍、甥は日本画家の三輪晁勢、その子息も同じく日本画家の三輪晃久と画家を多く輩出した事で知られている。
  苑内には三輪家と親交の深かった良寛歌碑が2基建立されており、茶人松村宗悦によって造られた茶室積翠庵(せきすいあん)が復元されている(茶室本体は北方文化博物館に移築)。
  また観音堂もあり、こちらには十一面観音像が安置されている。
  この観音像は豊臣秀吉朝鮮出兵の際に持ち帰ったもので新羅王朝期の作品だと言われているが実際は室町時代の作とされており、1891年(明治24)に三輪潤太郎が奈良で購入して三輪家の護持仏としたものである。(後に与板町へ寄贈)
 ・旧斉藤家別邸(新潟市中央区西大畑町・9月25日)
  「斎藤家夏の別邸」は、明治〜昭和初期に鍵富家、白勢家と並ぶ新潟三大財閥と言われた斎藤喜十郎家が大正7年(1918)に建てた、総敷地面積1330坪を誇る広大な別荘。
  建物は格式高い日本建築。
  庭は大正6年から9年にかけて、当時25万円という巨費を投じて造られたもので、作者は東京の高名な庭師松本幾次郎。
  滅び行く江戸の大名屋敷の名石を選んで運び込み、中でも伊達屋敷にあった巨石は13トンものもので、当時木橋だった万代橋を渡れず、新潟駅から一か月がかりで運搬したといわれる。
  砂丘の斜面を生かし見事にまとめられた庭は商家の庭として全国でも有数の規模を持つ回遊式の名庭園。
  本宅2階座敷は庭の池に映る月を楽しんだことから「観月亭」と名付けらた。
  また、斎藤家の本邸の方は、「燕喜館」と呼ばれていた。
  その一部分(接客部分)が、白山公園の一画に移築再建されている。
 ・燕喜館(新潟市中央区一番堀通町:白山公園内・9月25日)
  明治期の大商家、斎藤家の邸宅の一部を移築再建した歴史的建築物。
  移築部分は登録文化財に指定されてる。
  「奥座敷」「前座敷」「居室」「茶室」がある。
豪農と豪商めぐりで旧斉藤家の本邸にあったのが「燕喜館」で西大畑町の建物が別邸であることを初めて知った。

豪農と豪商の館に驚き (イラストを模写)