にっぽんの発明発見伝

kanazu362011-04-13

新潟県ではきょう4月13日、夏の「計画停電」を回避しょうと、
企業や市民に節電を呼びかける社会実験「ピークカット15%
大作戦」と銘打ち節電実験を午後5時から午後7時まで実施
する。
電気といえば電球を発明した発明王トーマス・エジソンを思い出す。
エジソンは電球や蓄音機など1300もの発明をした。
地方紙新潟日報で「にっぽん発明発見伝」の連載が始まった。
1回目は「テレビを発明した高柳健次郎氏」だった。
発明発見伝といえば中学生時代に「自動織機の発明者豊田佐吉」や「グルタミン酸の発見者鈴木三郎助」や「真珠王御木本幸吉」の伝記を読み夢を膨らませた。
あらためて3人の功績をインターネットで調べた。
・自動織機の発明者豊田佐吉
 豊田佐吉は、江戸時代の末期、慶応3年(1867)に、遠江国(現在の静岡県)の生まれ。
 佐吉の両親は、彼を大工にさせようと修行させましたが、発明・工夫の夢がすてられず、24才のときに、布地を織るバッタン式の木製織機(もくせいしょっき)を改良し、特許を取得した。(明治24年)
 その後、東京に出て会社を作り、自分で改良した機械を販売しようとしましたが、うまくいかず故郷に戻ってた。
 しかし、故郷に戻ってからは、取扱いが簡単で能率のよい糸繰返機(かせくりき)を発明したり、木製織機を動力化したり、数々の発明を生み出し成功をおさめた。
 彼は、昭和5年(1930)、64才で死亡するまで、自動織機の改良を続け、特許を84件、実用新案権は35件も取得した。
 トヨタは佐吉の後、息子の豊田喜一郎が継いでトヨタ自動車を創業し現在に至っている。
グルタミン酸の発見者鈴木三郎助
 鈴木三郎助は、昆布だしのうま味の正体が「グルタミン酸」であることを発見、「うま味調味料」開発者の池田菊苗博士と組んで、「味の素」を創業した人物でもる。
 慶応3年〜昭和6年(1867年〜1931年)神奈川県葉山生まれ。米商人、初代鈴木三郎助の長男。
 三郎助は、昆布だしのうま味の正体が「グルタミン酸」であり、東京帝国大学(現、東京大学)の池田菊苗教授がグルタミン酸ナトリウムの製造法特許を取得したことを知る。
 特許を共有し工業化を引き受け「味の素」の商品化に成功し「味の素」の商品名で一般発売した。
・真珠王御木本幸吉
 御木本幸吉は、安政5年(1858)、鳥羽のうどん屋「阿波幸」の長男として誕生。
 様々な仕事の末、伊勢志摩の名産だった”真珠”の魅力に注目し、試行錯誤と失敗の繰り返しの中、明治26年(1893)世界で初めて真珠の養殖に成功した。
 幸吉が、人間の手で美しい真珠を作りだすことを決心したのは、32歳のとき。
 30歳で真珠商人になったものの、商人たちが天然の真珠をうばいあうため、日本の真珠がしだいに少なくなっていくことに心を痛めていた幸吉は、東京帝国大学の箕作佳吉博士から貝の中で真珠ができる秘密をおそわり、胸をときめかせて養殖にとりかかった。
 「成功まで一生かかるかもしれないが、死んでもやりぬくぞ」。
 幸吉は、英虞(あご)湾に養殖場を作り、たくさんのアコヤ貝に真珠の核になる粒を入れて、海中に沈めました。
 しかし、何度やっても失敗でした。あるときは、赤潮で海中のアコヤ貝が全滅してしまった。
 でも、幸吉は、くじけず人から「真珠きちがい」と笑われながら、実験をくりかえした。
 1893年7月のある日、幸吉と妻のうめは、海岸で貝の中を調べていた。
 すると突然、うめが叫び「あなた、あったわ、あったわ、光ってる」 うめが開いた貝に、きらりと光るものがあった。
 形はまだ半円だったが、まちがいなく真珠。
 「よし、方法を考えれば、きっと、丸い真珠ができるぞ」
 幸吉は、むちゅうになって研究をつづけ、そして、ついに1905年に、真円真珠の養殖に成功した。
 死んでもやろうと決心して15年、幸吉は47歳だった。
にっぽん発明発見伝の1回目はテレビを発明した「高柳健次郎氏」だった。
2回目以降どんな人たちが登場するだろうか。
明王エジソンは「天才とは99%の汗と1%のひらめきである」の言葉を残している。
21世紀にはどんな発明発見があるか・・・。

発明発見伝に夢を膨らます (イラストを模写)