稲むらの火と町民農民を救った近郷の  義民と義士

kanazu362011-04-29

今日は昭和の日。
小学校の恩師(88)が「高齢者叙勲」を受けると新聞に。
3月11日発生した東日本大震災津波で多くの人が犠牲に
なった。
津波といえば、1854年(安政元年)11月5日の津波紀伊の国(和歌山県)有田の庄屋五兵衛が村人を救った「稲むらの火」の話が有名だ。
新潟市の近郷にも町民や農民を救った義民や義士の話が伝わる。
稲むらの火
 稲むらの火は、1854年(安政元年)の安政南海地震津波に際して紀伊国広村(現在の和歌山県広川町)で起きた故事をもとにした物語。
 村の高台に住む庄屋の五兵衛は、地震の揺れを感じたあと、海水が沖合へ退いていくのを見て津波の来襲に気付く。
 祭りの準備に心奪われている村人たちに危険を知らせるため、五兵衛は自分の田にある刈り取ったばかりの稲の束(稲むら)に松明で火をつけた。
 火事と見て、消火のために高台に集まった村人たちの眼下で、津波は猛威を振るう。
 五兵衛の機転と犠牲的精神によって村人たちはみな津波から救われたのだ。
 昭和12年の国定教科書「小学国語読本巻十」に「稲むらの火」が教材として掲載されている。
・明和義人顕彰之碑
 江戸時代の明和4年(1767)、財政悪化に苦しむ長岡藩は、湊を運営する新潟町民に多額の御用金を収めるように命じた。
 不景気で支払えず、人々は支払いを延ばしてもらおうと話し合いをした。
 長岡藩では、町民たちが勝手に集まって悪いことを計画していると首謀者の涌井藤四郎を捕まえ話し合いに参加した人たちを家に閉じ込めた。
 これに町の人たちが反発して一揆を起こした。
 しかし、藤四郎は「おかみにはむかうな」と人々を押し留めた。
 新潟町の人々は藤四郎を新潟町民の代表とする体制を整え、一揆後2カ月間にわたり 町の人たちが自ら組織を作って町政を運営した。
 その後、長岡藩は、事件を招いた涌井藤四郎と打ち壊しに深く関わったとされた岩船屋佐次兵衛を打ち首にした。
 新潟町の人々は、藤四郎たちを町の為に働いたのに理不尽に殺された人々と考え、ひそかにまつり、この事件を町の誇るべき歴史として後世に伝えた。
 明和義人顕彰之碑は白山公園に建立され、涌井藤四郎の墓は長照寺(西掘:三越裏)に、そして岩船屋佐次兵衛の墓は宝亀院(西掘)にある。
・用水路開削義人高橋源助之顕彰碑(旧西川町見帯)
 旧西川町曽根の見帯地区の公園内に「義人高橋源助之顕彰碑」が建立されている。
 石碑(昭和53年11月12日建立)には、その祖は甲斐から遁れ来て曽根見帯村に
 落着き姓を高橋と名乗った。
 源助は曽根村の割元となって開墾を進め鋭意耕地の拡張に努力した。
 しかし、用水の便悪く折角の開田も水不足のために荒廃に帰しことがしばしばであった。
 源助はこれを憂えて割前村から約6キロの用水路を開削して、西川の水を引くことを思い立ち、長岡藩主に願い出た。
 源助は「失敗したときは首をかけて責任を取る」と約束し開削は認められた。
 源助と村民の努力で用水路は完成。
 1681年(天和元年)10月9日、通水式が行われたが、藩役人の妨害で水は流れず工事失敗の責任を取らされ源助はその場で打ち首。
 首は西川水中に深く沈んだ。
 しばらくすると、板をくわえた、恐ろしい形相の源助首が浮かび上がり、勢いよく用水に水が流れた・・・。
 源助の犠牲のお蔭で曽根二百町歩の耕地は救われ、明治27・28年の大干ばつの際には田植えの出来なかった村々が多かった中にひとり曽根近郷が災害から免れた。
 大正3年(1914)には講談「一念大庄屋高橋源助翁列伝」で広く知られた。
 現在も菩提寺金剛寺で「源助まつり」が営まれている。
・義士片柳礼三の碑(墓)
 旧中之口村羽黒神社近くの墓地に「義士片柳礼三の碑(墓)」がある。
 幕末維新期、高崎藩(群馬県)は越後蒲原郡に羽黒(はぐろ)・打越(うちこし)・岩室(いわむろ)村(現西蒲区)、月潟村(現南区)など36ヵ村ほどの飛地領を持っていた。 
 1871年(明治4)7月に廃藩置県が実施され、高崎藩は高崎県に名が変わった。
 同年9月、この年の年貢を決めるため、高崎藩士の片柳礼三が作柄調査に訪れた。
 蒲原郡は、田植え後の干害と夏以降の水害で不作で領民の困窮振りを見た礼三は、独断で年貢を大幅に減免した。
 藩に申し訳が立たないと思った礼三は、羽黒村の庄屋の裏で切腹したと伝えられる。
 享年34歳。
 遺体は高崎に送られましたが、村人が血のりの付いた衣服などの遺品を埋葬し墓を立て、義士としてお祀りしたという。
 100年を経て苔むし傾いていた墓は、昭和57年末に集落の人の善意で修復され、昭和58年2月28日に村の文化財に指定された。
近郷を散策し義民や義士を知る。

これが義士の墓 (イラストを模写)