西蒲原曽根の義民高橋源助と木場の  旧武田家

kanazu362011-08-05

7月30日新潟市西区木場に「新潟市文化財センター」が
オープンした。
敷地内に「黒埼常民文化資料館」として古民具を展示していた
江戸時代の民家、旧武田家住宅も移設された。
移設された武田家の床の間に「高橋源助の書簡」が飾られており、その脇に「木場の武田家は、義民高橋源助の妻子は曽根から逃れ、やがて木場に移住した後、武田姓を名乗ったと伝わっています」と書かれている。
興味を持ち8月2日、新潟市西蒲原曽根の「義人高橋源助之顕彰」を見てきた。
・西蒲原曽根の義民高橋源助(新潟市西蒲原曽根・8月2日)
 用水路開削「義人高橋源助之顕彰」が、旧西川町曽根の見帯地区の公園内に建立されている。
 石碑(昭和53年11月12日建立)には、
 その祖は甲斐から遁れ来て曽根見帯村に落着き姓を高橋と名乗った。
 源助は曽根村の割元となって開墾を進め鋭意耕地の拡張に努力した。
 しかし、用水の便悪く折角の開田も水不足のために荒廃に帰しことがしばしばであった。
 源助はこれを憂えて割前村から約6キロの用水路を開削して、西川の水を引くことを思い立ち、長岡藩主に願い出た。
 源助は「失敗したときは首をかけて責任を取る」と約束し開削は認められた。
 源助と村民の努力で用水路は完成。
 1681年(天和元年)10月9日、通水式が行われたが、藩役人の妨害で水は流れず工事失敗の責任を取らされ源助はその場で打ち首。
 首は西川水中に深く沈んだ。
 しばらくすると、板をくわえた、恐ろしい形相の源助首が浮かび上がり、勢いよく用水に水が流れた・・・。
 源助の犠牲のお蔭で曽根二百町歩の耕地は救われ、明治27・28年の大干ばつの際には田植えの出来なかった村々が多かった中にひとり曽根近郷が災害から免れた。
 大正3年(1914)には講談「一念大庄屋高橋源助翁列伝」で広く知られた。
 現在も菩提寺金剛寺で「源助まつり」が営まれている。
・木場の旧武田家(新潟市西区木場・8月2日)
 武田家の先祖は、越後に逃れた甲斐国武田一族の武将が、高橋姓を名乗って曽根(旧西川町)で百姓となり、その子初代源助の代に割元役となったと伝えられている。
 そして、またその子の源助(2代目高橋源助:代々襲名)も割元役を務め、地域の開発に尽力しましたが、天和元年(1681)に処刑された。
 その妻と長子は、小中川(現在の燕市)に逃れて、およそ30年後、木場村(現在の新潟市西区木場:旧黒埼町木場)に移住した。
 その後建てられたものが現在の旧武田家住宅であると伝えられている。
なお、「座敷」と「裏中門」は明治時代に入ってから建て増されたと考えられている。
 旧武田家住宅は、裏中門造りの代表的な民家として、昭和45(1970)年4月、旧黒埼町(当時黒埼村)の有形民俗文化財に指定された。
 翌年、旧所有者である武田源助氏から旧黒埼村への寄贈を受け、現在の西区緒立流通2丁目にある緒立八幡宮脇に解体移築・整備し、「黒埼常民文化史料館」として公開してきましたが、平成23年に再び新潟市西区木場の新潟市文化財センター敷地内に解体・移築された。
 西蒲原の低湿地では信濃川中ノ口川の破堤により、たびたび水害に見舞われた。
 「ダイドコロ」と「小間」の奥に、水害への備えとして床高を上げて中2階とした「寝間」が2室ある。
 「裏中門」には、洪水に備えた防災の知恵がよく表れている。
今回移設された旧武田家住宅を見学し、床の間に飾られている“高橋源助の書簡”の説明書を読み、木場の武田家は江戸時代前期に甲斐(山梨県)の武田氏が滅亡した際に越後に逃れて曽根に移り住んだ高橋源助の一族の子孫であることを初めて知った。
“高橋源助の書簡”の説明書の末尾には、「330年以上前のこの書簡を所蔵していることにより、武田家は曽根の高橋源助の末裔(子孫)であるといわれています」と書かれている。

この古民家は・・・ (イラストを模写)