三条の川舟展と舟運で栄えた酒屋村を 歩く

kanazu362011-09-09

信濃川阿賀野川の大河が流れる新潟県
昔から物資の運搬や交通手段として舟が使われた。
三条市の図書館で開催されていた「三条の川舟展」を見、
舟運で栄えた酒屋村(現新潟市江南区酒屋町)を歩いた。
・三条の川舟展(三条市元町:三条市立図書館・9月7日)
 三条市立図書館で信濃川五十嵐川で使われていた舟に関する品々や写真や書物などを展示する「三条の川舟展」が開催されている。
 会場には
 ・舟に関する品々
  ・運搬船の新造旗 ・田屋渡船場の滑車 ・舟釘 ・ヒワダ ・渡しの料金を入れた鞄
  ・櫂(60年以上前に下田村の筏乗りが五十嵐川の川下りに使っていたもの)
 ・写真
  ・新潟の舟(村上・加治川・岩船・新津・津川・白根・巻・燕・寺泊)
 ・書物
  ・汽車汽船旅行案内(大正5年5月5日号)
  ・汽車汽船旅行案内(大正13年11月8日発行)
 などが並ぶ。
・舟運で栄えた酒屋村を歩く(現新潟市江南区酒屋町・9月7日)
 ・酒屋村から両川村へ(両川村史から抜粋)
  皇国地誌によれば酒屋村の開発は天文年間(1532−1555)で開発人は、北上勘之亟で北上氏が自己資金と技術により開発し酒屋村と名付けた。
  慶応元年(1865)に会津領となり、慶応3年(1867)7月に陣屋が置かれた。
  戊辰戦争の慶応4年(1868)8月に陣屋が炎上し会津領の支配は終った。
  明治22年(1889)4月の町村制に基づき酒屋村・割野村・嘉瀬村・和舞村が誕生。
  明治34年(1901)11月1日、酒屋村・割野村・嘉瀬村・和舞村の4村が合併して両川村が誕生した。
  村名の「両川」は、村が信濃川と小阿賀野川の合流点に位置しているところから名付けられた。 
  河川交通全盛時代には、北前船の寄港する新潟港から会津や上州へ物資を流通させる船着場として繁栄、また在郷町として商工業が発達し、豪農や豪商が活躍した。
  元禄3年(1690)の戸数は40戸、宝暦年間(1751−1764)に六斎市が立っていた。
  有名な酒屋商人としては「酒屋にすぎたるものは、生薬屋に材市」とうたわれ、生薬屋の山木と材木屋の材市、それに七尾屋、米屋の吉野家・八郎どんなどがある。
  昭和32年(1957)5月3日新潟市と合併。
 ・酒屋村のまちを歩く
  酒屋町を訪ねた9月7日は「2・7市」が立つ日だった。
  小阿賀野川の堤防道路には約10軒のテントが張られ、野菜・食品・乾物・履物・衣料品・花などが売られていた。
  酒屋町の旧道の両側に商店が軒を連ねている。
  商店街はシャッタを下ろす店が多く往時の賑わいはない。
  両川村の中心地であった酒屋町には今も金融機関が2支店と郵便局と駐在所がある。
  神社は「八坂社諏訪社合殿」があり、地元の人は親しみをこめ酒屋のお宮さんと呼んでいる。
  八坂社は元和3年(1617)の創立と伝える。
  八王子(今の燕市に属する地)の鎮守の御神体が酒屋町の川原に漂着し、これを八王子権現として祀ったのを起源とし、これを明治3年(1870)に八坂社と改称したと伝える。
  酒屋町の西のはずれの「八王子神社旧跡」に今も小さな社が祀られている。
  お寺の多いのに驚いた。
  「西養寺」「覚応寺」「敬覚寺」「敬明寺」「本敬寺」「養楽寺」の6寺があり、いずれも真宗大谷派である。
  明治36年(1903)6月16日に酒屋大火があり戸数368戸のうち家屋107・土蔵3・寺院3(敬覚寺・覚応寺・養楽寺)が全焼した。
  平成22年(2010)の世帯数は381・人口1147人・65歳以上が32.8%。
  世帯数を見て驚いた。
  明治36年が368、平成22年は381とほとんど変わっていな。
  町では酒屋町地区を観光で盛り上げようと「酒屋町地区のまち歩きマップ」を作りまち歩きを計画しPRしたいと。
まち歩きマップができたら舟運で栄え昔の面影が残る酒屋村をもう一度歩いて見たい。

酒屋村を歩く (イラストを模写)