かやぶきの旧家を訪ねる

kanazu362011-09-16

弥彦村の指定有形文化財に指定されている「旧武石家住宅」
母屋のかたぶき屋根がふき替えられたと新聞に出ており、
かやぶきの旧家に興味を持ち近郷の旧家を訪ねた。
・旧武石家住宅(弥彦村麓:9月11日)
 武石家の先祖は、天正12年(1584)に柏原山廣福寺を建立した開基祐善に供奉して、能登より移住してきたと伝えれれている。
 敷地内には主屋が東向きに建ち、その南手前に味噌蔵、南に薪小屋、北に土蔵が、さらに北方に納屋がある。
 ・主屋(建築年代は18世紀初頭:弥彦村の指定有形文化財に指定)
  寄棟、茅葺、平入り、桁行7間、梁間4間の建物で、内部は座敷の板の間、茶の間が土間、柱や梁の仕上げはチョウナ鉋、天井や建具がなかった事から新潟県内では最も古い形態を残していると考えられている。
 ・味噌蔵(明治初期に建てられたと推定される:国登録有形文化財に指定)
 ・薪小屋(昭和4年(1929)に建てられた:国登録有形文化財に指定)
 ・納屋(建築年代は昭和初期と考えられる)
 旧武石家住宅主屋は平成5年に弥彦村指定有形文化財に指定された。
・旧武田家(新潟市西区板井・9月11日)
 武田家の先祖は、越後に逃れた甲斐国武田一族の武将が、高橋姓を名乗って曽根(旧西川町)で百姓となり、その子初代源助の代に割元役となったと伝えられている。
 そして、またその子の源助(2代目高橋源助:代々襲名)も割元役を務め、地域の開発に尽力しましたが、天和元年(1681)に処刑された。
 その妻と長子は、小中川(現在の燕市)に逃れて、およそ30年後、木場村(現在の新潟市西区木場:旧黒埼町木場)に移住した。
 その後建てられたものが現在の旧武田家住宅であると伝えられている。
 なお、「座敷」と「裏中門」は明治時代に入ってから建て増されたと考えられている。
 旧武田家住宅は、裏中門造りの代表的な民家として、昭和45(1970)年4月、旧黒埼町(当時黒埼村)の有形民俗文化財に指定された。
 翌年、旧所有者である武田源助氏から旧黒埼村への寄贈を受け、現在の西区緒立流通2丁目にある緒立八幡宮脇に解体移築・整備し、「黒埼常民文化史料館」として公開してきましたが、平成23年7月に再び新潟市西区木場の新潟市文化財センター敷地内に解体・移築された。
 西蒲原の低湿地では信濃川中ノ口川の破堤により、たびたび水害に見舞われた。
 「ダイドコロ」と「小間」の奥に、水害への備えとして床高を上げて中2階とした「寝間」が2室ある。
 「裏中門」には、洪水に備えた防災の知恵がよく表れている。
 今回移設された旧武田家住宅を見学し、床の間に飾られている“高橋源助の書簡”の説明書を読み、木場の武田家は江戸時代前期に甲斐(山梨県)の武田氏が滅亡した際に越後に逃れて曽根に移り住んだ高橋源助の一族の子孫であることを初めて知った。
・巻町の旧庄屋佐藤家(新潟市西蒲区福井・2009年8月12日)
 旧巻町の福井集落に入るとかやぶきの民家佐藤家が見える。
 旧庄屋佐藤家は建築後約250年のかやぶき民家。
 かやぶき屋根の古い庄屋の屋敷で、石組みが施され、杉の大木の聳える庭もある。
 屋敷は現在民間の保存会の力で保存され屋敷は各種イベントに活用されている。
 2009年8月12日、旧巻町の郷土資料館で開催された「角海浜村と毒消しの里展」で保存会の会長斉藤文夫さんと親しくなり、斉藤さんが管理する福井の旧庄屋佐藤家を案内していただいた。
 屋敷入口に「旧庄屋佐藤家」と書かれた看板があり、玄関には「佐藤幸七」の表札が
掲げられている。
 母屋の隣の農作業場には「佐藤家民俗資料館」の看板も掲げられている。
 母屋に案内された。
 囲炉裏は薪が燃え、天上からは自在カギが下がり鉄瓶のお湯が沸いている。
 1階は、16畳間・12畳間・8畳間の3部屋がある。
 2階は、6畳間が2部屋ある。
 2階の6畳間の壁に佐藤家を描いた絵が掲げられている。
 絵は、雪国の民家を描く画家として知られる早津剛さんが絵仲間と一緒に写生に訪れ、その時に仲間の中川清さんが描いたもの。
 佐藤家は昔、峰岡三根山藩)の殿様が山遊びの帰りには、必ず立ち寄ってお茶を戴き一休みしたところといわれている。
 庭もすばらしく、二階から見るや弥彦山や田園風景に心が癒される。
旧家と民家のかやぶきの家が日本の原風景の中に溶け込む。
懐かしい旧家のかやぶきの家が往時の歴史を語る。

かやぶきの家に懐かしさが (イラストを模写)