涼を求めて妖怪スポットめぐり

kanazu362012-08-29

夏の風物詩といえば怪談話が定番。
真夏の子どもたちの行事に夜の墓地を歩く「度胸試し」もあった。
いま新潟古町の旧大和新潟店で夏季限定のお化け屋敷
「丑三つマネキン」開催されている。
新潟日報では「妖怪ゾクゾク」を連載している。
涼を求めて妖怪スポットめぐりに出かけた。
・鬼の姿映す「鏡井戸」(燕市分水地区:国上寺)
 国上寺から5合庵に向かう途中に「鏡井戸」がある。
 看板には酒呑童子は今から約1000年前にこの分水町砂子塚に生まれ、少年時代に国上寺で外道丸と呼ばれ稚児として過ごした。
 生来美男子であったため、近隣近郷の娘達から恋文が山のように届いたが、開くことなく修行に励んでいた。
 ある日、返事の来なかったことを悲観した娘が己の命を絶った。
 そのことを知らされた外道丸が、恋文の詰まったつづらを開けると白煙が立ち昇り、童子を包みそのまま童子は気を失う。
 目が覚めて自分の顔の異変に気づき鏡井戸を覗くと鬼と化した自分がいて、暫く岩穴に閉じこもっていたものの京に上り酒呑童子と名乗り悪行三昧を繰り返した後、丹波大江山に移り住んだという。
 看板の末文に「今も悪心を持つ者が、この井戸をのぞくと鬼に見えるといわれる」と書かれている。
 今は井戸の水がたまっておらず、井戸をのぞいても「鬼に見える」ことはない。
・緒立八幡宮の「胴鳴り」(新潟市西区緒立:緒立八幡宮
 緒立八幡宮には、源義綱に打たれた黒鳥兵衛の首が埋まっているという。
 伝説によれば、黒鳥兵衛は平安時代の後期、安倍貞任の残党であった黒鳥兵衛は越後国へ入ると悪逆非道の限りを尽くし朝廷の討伐軍をも打ち破った。
 朝廷は、佐渡国へ配流となっていた源義綱を赦免し黒鳥兵衛の討伐に当たらせた。
 黒鳥兵衛は妖術を使って抵抗するが、次第に追い詰められ、現在の新潟市味方の陣に立てこもった。
 当時、このあたり一帯は泥沼で、容易に歩ける場所ではなく、攻めるに難しい陣であった。
 攻めあぐねていた源義綱は、ある日、一つがいの鶴が木の枝をくわえて来ると、それを足に掴んで沼の上を歩くのを見た。
 「これこそ神の御加護」と、かんじき(竹などで作った輪状又はすのこ状の歩行補助具で、足に着け、雪上や湿地などで足が潜らないようにする)を作り、兵に履かせて一気に攻め込んだ。
 不意を突かれた黒鳥兵衛は、ついに討ち取られ、首をはねられた。
 はねられた黒鳥兵衛の首は黒鳥地区へ飛び、胴は塩漬けにして緒立山に埋め、その上に鎮めとして八幡宮を建立した。
 その後、首と胴が互いに求め合って無気味に鳴りあうこの社地を「胴鳴りの丘」と呼ぶようになった。
 緒立八幡宮境内に「八幡山七不思議」の解説を書いた石板が7枚立てられている。
 七不思議は、「矢竹」「浮島」「地面積」「兵衛の名を忌(いわま)む」「胴鳴り」「塩泉」「霊泉」の七つ。
・弥彦の婆々杉(弥彦村:宝光院)
 今から900年以上前の承暦3年(1079)弥彦神社造営の際、上梗式奉仕の日取りの前後について、鍛匠(鍛冶屋)黒津弥三郎と工匠(大工棟梁)の争いとなった。
 これに負けた弥三郎の母(一説に祖母)は無念やるかたなく、恨みの念が昂じて鬼となって、形相ものすごく雲に乗って飛び去った。
 それより後は、佐渡の金北山、蒲原の古津、加賀の白山、越中立山、信州の浅間山と、諸国を自由に飛行して悪行の限りをつくし、「弥彦の鬼婆」と世人に恐れられた。
 それから80年の歳月を経た保元元年(1156)、当時弥彦で高僧の評判高かった典海大僧正が弥彦の大杉の根元に横たわる一人の老婆を見つけ、悪行を改め、本来の善心に立ち返るよう説得し、さらに秘密の印璽を授け「妙多羅天女」の称号を与えたところ改心した。
 その後は神仏、善人、子どもの守護に尽くしたので、村人はこの大杉を「婆々杉」と呼ぶようになった。
・番外:度胸試し
 昭和20年代ころには、夏の行事の一つに「度胸試し」があった。
 夕食後、町内の子どもたちが神社の境内に集まり、「度胸試し」といって暗闇の中、近くのお寺の墓地を一人で歩くのだ。
 子ども心に夜の墓地を歩くのは怖かった。
 夏の夜の「度胸試し」も遠い昔の思い出だ。
真夏の一日、涼を求めて妖怪めぐりに出かけてみては。
「鏡井戸」をのぞくと (イラストを模写)