赤塚の大地主中原邸と旧跡名跡を   訪ねる

kanazu362012-10-11

新潟市西区赤塚の大地主「中原邸」が、10月8日秋の一般公開
された。  
「中原邸」の一般公開に合わせ、赤塚郷土研究会では、「赤塚
旧跡名跡マップ」を作成した。
ボランティアの人たちが旧跡名跡の説明を行っていたので、ボランティアの案内で中原邸と赤塚旧跡名跡を見学してきた。
・赤塚の大地主中原邸
 明治時代の赤塚地域を代表する大地主。
 中原邸の敷地は、明治初頭で3342坪、現在は約4000坪。
 明治時代のフランス積のレンガ塀があり、裏庭には約2100坪の竹林がある。
 明治11年(1987)9月16日、明治天皇北陸巡行の際、明治天皇が昼食をとられた。
 邸内には、「明治天皇行在所の碑」が建つ。
 邸内庭では、裏庭の竹を利用して作られた竹炭が販売されていた。
・赤塚の旧跡名跡めぐり
 ・芭蕉俳句碑
  佐潟公園脇に「芭蕉句碑」が建つ。
  俳句は芭蕉が赤塚の旅籠を訪れ読んだと伝えられている。
 ・屁っぷり坂
  江戸中期に、この坂が作られた。
  当時は現在よりも急斜面で、あまりの傾斜で登ることができずに亡くなった人がいると伝えられている。
  屁が出るほど登るに切れなかったことから「屁っぷり坂」と呼ばれるようになった。
 ・石黒家墓地と渡辺嘉助の碑
  屁っぷり坂の途中に、江戸時代の大庄屋であった石黒家の墓地と渡辺嘉助の碑がある。
  墓の手前にある石碑は、石黒家の家臣の子孫である渡辺嘉助の碑。
  石黒家の本当の墓地は、近くの大慈寺の裏にある。
 ・石黒家屋敷跡
  石黒家は江戸時代の大庄屋であり豪農だった。
  中原邸の隣の一段高い石垣の上に石黒家の屋敷跡がある。
  敷地は街道に突き出し、さらに石垣の上に屋敷があった。
  これらのことから、石黒家の屋敷が目立つように設けられ、石黒家の権威を表していた。
 ・赤塚神社
  赤塚神社は,赤塚小学校の隣に鎮座する。
  祭神は伊邪那岐尊で、古くは「イザナギ社」と称した。
  明治の初めに村社となり、明治13年(1880)に「赤塚神社」と改称した。
  明治40年(1907)には宗像社、山祇社、富士浅間神社を合祀した。
  境内に開運稲荷が祭られている。
  毎年2回、境内で「赤塚太々(代々)神楽」が奉納され、赤塚では“村の祭り”と呼ばれている
  現在の社殿は、明治時代に再建されたもので神社の神額の文字「赤塚神社」は、明治天皇の北陸巡行に同行した土方久元が揮毫した。
 ・大慈寺
  現在の場所に石黒家の菩提寺として1604年に建てられた。
  鐘楼にある梵鐘は、太平洋戦争時に活躍した戦艦「陸奥」の一部を引き揚げ、その鉄(通称:陸奥鉄)を溶かして造られた。
  現在では、この鐘を鳴らして戦没者を供養している。
 ・浄恩寺
  赤塚で最も歴史のある寺院で、鎌倉時代に創建された。
  もとは、角田浜にあったが後に赤塚に移った。
  その後一時期、佐渡に移ったが再び赤塚に戻った。
  約800年の歴史を持ち、中原家の菩提寺
  境内には、前本堂の鬼瓦が記念として保存されている。
 ・潟脇の道標
  五輪塔の碑で、天保10年10月、38代日妙と刻まれている。
  1839年に山崎の庄屋・伊藤家によって建てられた。
  赤塚中学校に行く道路の左角にあったものを1991年に現在の場所に移された。
  「右はにゐがた 西かくた道」「願主伊藤」の文字が書かれている。
旧北国街道の宿場町で栄えた赤塚の旧跡や名跡を訪ね、昔を偲んでみては・・・。
ボランティアの説明を聞く (イラストを模写)