陣屋跡と代官所跡めぐりに

kanazu362012-12-05

新潟市江南区酒屋に「会津藩酒屋陣屋」の石碑が建立されたと
新聞に出ていた。
陣屋跡と代官所跡に興味を持ち、インターネットで調べ
11月27日と30日の2日掛りで陣屋跡と代官所跡めぐりに
出かけた。 
・陣屋跡
 陣屋は、江戸時代の幕藩体制における、大名領(藩)の藩庁が置かれた屋敷、また徳川幕府直轄領の代官の住居および役所が置かれた建物のこと。
 ・酒屋陣屋跡(新潟市江南区中酒屋:11月27日)
  新潟市江南区中酒屋の酒屋町集会所脇の陣屋通りに「会津藩酒屋陣屋」の石碑と酒屋陣屋碑周辺マップ図が建てられていた。
  元治元年(1864)会津藩松平容保京都守護職に再任され、5万石の加増になった。
  その要望により、翌年酒屋村は会津領となった。
  会津藩にしては物資の運搬に川の合流点である港をもった酒屋が必要だったのである。
  そこで、慶応3年(1867)水原にあった陣屋を酒屋に移すこととし、庄屋宅を仮の役宅として、政務を執った。
  陣屋の工事はなかなか進まず、その年の9月、大政奉還となってしまった。
  翌慶応4年(1868)に戊辰の役が始まり、同年2月2日酒屋に会津、長岡、村松新発田、村上の5つの藩の代表が集まり、会談が行われた。
  これは先に開かれた新潟会談と共に新潟町を中心とする経済、軍事の拠点を会津藩の下に位置づけ、奥州列藩同盟の伏線となったもので、世に「酒屋会談」と言われるものである。
  会津藩は酒屋陣屋へ新潟町と同数の300人の兵を出し、新政府に対する敵対行動を始めたが、6月撤退した。
  百姓一同の勢いが強く、それを侍が恐れたためと言う。
  同年7月25日、新政府軍は太夫浜に上陸し、新潟を攻撃した。 
  8月2日朝、酒屋陣屋は俵柳村(曽野木)出身の小林政司が近郷の有志18人を集めて組織した勤皇農民義勇兵の金革隊によって攻撃された。
  陣屋には備えもなく、焼き払われ、会津兵は戦わずして新津に退却した。
  酒屋が会津領であった期間はわずか4年にも満たない短い間だったが、会津会津領だった津川との交流は阿賀・小阿賀の2つの川を通じて密接となり、明治以降の繁栄の基盤となったのである。
代官所
 代官所は、江戸時代代官が政務を執り行なった役所。
 代官とは、君主ないし領主に代わって任地の事務を司る者又はその地位をいう。
 ・水原代官所新潟市江南区中酒屋:11月27日)
  1746年(延享3年)に、幕府直轄領として、水原城館跡に代官所が設置され、初代代官として内藤十右衛門が着任しました。
  代官所の支配地は阿賀野市をはじめ、北蒲原各地や中蒲原・南蒲原・岩船の一部など複雑に分布し、支配高は6〜10万石に及んだ。
  代官所の主な機能は年貢の徴収や民政ですが、特に水原代官所の場合はこの地方の豊かな生産力を背景にした年貢収納を確保することや、福島潟の開発、及び新発田村上藩の監視が主な目的だった。
  水原代官所は以降22代まで続きましたが、1868年(慶応4年)3月戊辰戦争に伴い会津藩預かりとなり、その後西軍の侵攻により会津藩が退散したことによって同年7月に代官所は123年の幕を閉じた。
  廃絶から127年後の平成7年8月25日に復元された。
 ・出雲崎代官所出張陣屋跡(澤海代官所・旗本知行所屋敷跡:11月27日)
  新潟市江南区横越地区澤海の光圓寺山門入口に澤海代官所・旗本知行所屋敷跡の石碑が建つ。
  1610(慶長15)年から1687(貞享4)年まで、澤海藩が置かれた。
  沢海藩が改易された後、旧澤海藩領は幕府領となり、現在の光圓寺の境内に出雲崎代官所の出張陣屋が置かれた。
  1707(宝永4)年から明治維新までは旗本小浜氏の知行所があった。
  1629(寛永6)年に光圓寺が澤海に移り、1869(明治2)年に代官所のあった現在地に移った。
 ・曽根代官所新潟市西蒲区曽根:11月30日)
  元和4年(1618)、牧野忠成の長岡移封と共に、蒲原組がおかれ、同6年、長岡藩の六ヶ組の1つ曽根組が設置された。
  そして曽根組支配の代官所が現曽根小学校校地内におかれた。
  藩の郡奉行(郡方)配下で、25石?30石の藩士1?3人が代官所に勤務した。
  時期により移動があるが、元禄15年(1702)5カ村、3050戸を統轄した。
  当時をしのぶ樫の木が、曽根小学校の校地の北西部にある。
 ・出雲崎代官所出雲崎町尼瀬:11月30日)
  解説板によると「出雲崎は、文明年間(約500年前)上杉家によって、佐渡征伐の拠点と海岸鎮護のため陣屋が置かれ、元和2年(1616年)に徳川幕府出雲崎代官所を幕府直轄地(7万石)とした。
  以後、出雲崎は唯一佐渡からの金銀荷揚げ港として栄えるようになった。
  代官所は町内の石井町、羽黒町稲荷町と変遷し文化5年(1808年)にこの地に移転した。
  以後、明治に至るまで存続、歴代代官の中には、教育や港湾の築造に力をそそぐなど名代官がおられた。
  今でも松の大木と屋敷神社稲荷社が往時を物語っている。」
  と書かれている。
 ・石瀬代官所跡(新潟市西蒲区岩室石瀬:11月30日)
  旧岩室村石瀬は、幕府の天領で、石瀬御役所(代官所)が設置されていた。
  代官所跡地は種月寺近くのT字路に「石瀬代官所跡」と書かれた標柱が建てられている。
  石瀬代官所は安永2年(1705)から文化12年(1815)に設置され、24代に亘っている。
  一時は役所の中断もあったが、新発田周辺まで高8万石余りを支配した時代もあった。
  与板藩がこの地に築城を願い出たため代官所は廃止され、築城祝詞まで読まれたものの、石瀬の城下街計画は幻に終わった。
新潟県内に陣屋跡と代官所跡が多くあるのに驚き。
現在代官所が復元され公開されているのは水原代官所だけだった。
出雲崎代官所跡を見る (イラストを模写)