古里の懐かしいお城三城

kanazu362013-04-15

古里上越市高田は、来年(2014年)高田城開府400年祭が
行われる。
上越市には春日山城・福島城・高田城があった。
古里のお城三城を新聞や資料などで調べた。
春日山城
 春日山城は、南北朝時代越後国守護である上杉氏が越後府中の館の詰め城として築城したのが始まりとされる。
 1507年(永正4年)、守護代であった長尾為景が上杉定実を擁立して守護上杉房能を追放した。新守護として定実が府中に入ると、長尾氏が春日山城主となった。
 上越市中部にある春日山山頂に築かれ、天然の要害を持つ難攻不落の城とされ、為景、晴景、上杉謙信長尾景虎)、上杉景勝の四代の居城となった。
 しかし、上杉景勝豊臣秀吉の命で1598年(慶長3年)会津へ移った後に越後を支配した堀氏は、政治を取り仕切るに不便として直江津港の近くに福島築城を始めた。
 9年後の1607年(慶長12年)子の忠俊が春日山城を廃し福島城に移ったため春日山城は250年余りでその歴史を閉じた。
 春日山城は天下の名城にふさわしく規模が大きく、遺構は春日山の全域に及び、面積は500ヘクタールを超える。
 上越市郷土研究会会長花ケ前盛明(75)さんが、今年1月(月2回)から地方紙新潟日報で「越後史跡紀行」を連載している。
 第1回目が「春日山城跡」であった。
・福島城
 上杉景勝会津移封の後に春日山城主となった堀秀治により、山城である春日山城に代わるものとして築城が始められた。
 その正確な時期は明らかでないが、1600年(慶長5年)以降まもなくであろうとされる。
 秀治の死後家督を継いだ堀忠俊の代に完成し1607年(慶長12年)に、忠俊は春日山城を廃して福島城へ移った。
 城下町建設にあたっては、春日山城下や府中から多くの町人が移住したと伝えられる。
 1610年(慶長15年)堀忠俊の改易後に越後の領地を継承した松平忠輝が福島城主となった。
 忠輝は1614年(慶長18年)、関川を遡った内陸部に高田城を築城。
 これにより福島城は廃城となった。
 高田城下の町人町には、福島城下から移転したという由緒を伝える町が少なくない。
 廃城にして高田城に移った理由は、川に挟まれた場所が故に度々水害にあった為と言われているが、一説には忠輝の「波の音で眠れない」と言った我侭によるものとも言われている。
・高田城
 徳川家康の六男、松平忠輝の居城として天下普請によって築かれた近世の典型的な平城で、城地の縄張りと工事の総監督は忠輝の舅の伊達政宗が行った。
 高田城は、松平忠輝が1610年(慶長15年)、福島城主になると間もなく高田平野にある菩提ヶ原に新城を築いた。
 築城は1614年(慶長19年)3月に始まり、7月には忠輝が福島城を廃し高田城に入った。
 高田城は、石垣を構築せず、天守閣も造らなかった。
 1614年に3重3階の三重櫓を建てて天守の代用とした。
 大坂冬の陣(1614年)の直前で工事を急いだことと、付近に石材がなかったことなどによる。
 ところが、忠輝は家康の怒りに触れ、入城わずか2年後の1616年(元和2年)、地域を没収された。
 以後坂井家(10万石)・松平忠昌(25万石)・松平光長(26万石)・稲葉正通(10万3000石)・戸田忠真(6万7850石)・松平越中守家(10万3000石)を経て、1741年(寛保元年)、榊原家が15万石で入城し、廃藩置県まで榊原家は6代、約130年続いた。 
 明治以降、陸軍第13師団の駐屯地司令部として使用するために大規模な土塁の撤去、堀の埋め立てが行われ、旧城地の東半分は旧状をとどめていない。
 本丸を含めた西半分には堀、土塁の一部が残されており、現在は公園として整備されている。
古里高田には22歳まで過ごした。
春日山城址は小中学校時代の遠足コースで何回も登った。
高田城址公園は小学校時代の写生場所であり、また、お花見の会場でもあり何回も行った。
廃城となった福島城は、本丸があったとされる場所に古城小学校があり、地元ではいまでも古城という地名で呼ばれている。
懐かしい春日山城・福島城・高田城の三城は、幼いころの記憶に残る。
春日山城址は遠足で登った山 (イラストを模写)