村上の鮭と堆朱
昨11月27日のNHKの「きょうの料理」は、
村上市のサケを使った「塩ざけのおろし煮」
「塩ざけの昆布巻き」「さけひじきご飯」だった。
11月21日、驚きの新聞折込広告を見つけた。
国指定「伝統的工芸品」を展示販売していた村上堆朱工芸館が閉店在庫一掃セールを
11月21日から24日までの間新潟市で開催と。
11月23日、閉店の村上堆朱工芸館を訪ね鮭で賑わう村上の街を歩いた。
・村上の鮭
・鮭漁と青砥武平冶(あおとぶへいじ)展(新潟市東北電力グリーンプラザ・11月18日)
世界で初めて鮭の回帰性を発見し、三面川に産卵と稚魚の保護施設「種川の制」を
開発した村上藩士青砥武平冶展が開催されていると知り見てきた。
会場には
・鮭の回帰性を発見した青砥武平冶(世界初の発見!鮭は生まれた川に戻る)
・世界初、鮭の自然ふ化システム「種川の制」
(獲るだけなく育てる漁法を生み出した村上藩)
種川の制とは:三面川の本流から水路を引いて支流(人工の川)を造り、そこで鮭
の自然ふ化を行おうとするもの。
本流のわきのに水路を造ることを「種川」という。
青砥の考案した方法は「種川の制」と名付けられた。
・鮭漁で得た収益を育成資金に(鮭漁の運上金1000両なり)
「種川の制」の築造は30年にわたる大工事。
漁獲高の減少で一時落ちこんでいた運上金が、着工から5年後の明和4年(1767)
には約40両、30年後の寛政8年(1796)には1000両を突破、村上藩の台所を
大いに潤した。
明治12年(1879)、旧藩士たちは鮭漁で得た資金で村上本町に小学校と中学校
(にちの県立村上中学校)を設立した。
・江戸時代から受け継がれた三面川の伝統漁法
「ウライ」「居繰網漁」「てんから漁」
・冬の風物詩、塩引き街道(鮭とともに歩んできたまち、村上)
「止め腹」「寒風干し」
止め腹とは、鮭の腹を割くとき、腹のひれを1から1.5センチほど残して切ることで
「つなぎ腹」ともいわれ村上独特の習慣。
腹をまっすぐに切るのが武士の切腹を想像させるので「止め腹」にするようになったと
伝えれれている。
・塩引き街道を歩く(村上市塩町・永徳鮭乃蔵:11月23日)
鮭漁と青砥武平冶展に魅せられ塩引き街道を歩き「永徳鮭乃蔵」をのぞいた。
店先で調理人が鮭をおろし塩お引きを作っていた。
作業場の天井には鮭が寒風干しされている。
販売所の店先の通路には「止め腹」の塩鮭が吊るされている。
村上の塩引き鮭の吊るし方は、頭から吊るすのではなく尾から吊るし頭が下に向いて
いる。(永徳の塩引き鮭は、2008年全国水産加工品審査会で水産庁長官賞に輝いた)
・村上の堆朱
村上堆朱工芸館が閉店するとの広告を見て11月23日工芸館を訪れた。
正面入り口のドアーに
お客さま各位 この度、諸般の事情により11月15日をもちまして閉店させていただ
くことになりました。・・・
平成20年11月16日 村上堆朱工芸館
と書かれた張り紙が掲示されていた。
・村上堆朱の歴史
村上は古い城下町。
村上地方の漆技は今から約600年前、京都から寺院建築に来た漆工が始めたと
伝えられる。
その後歴代藩主はこれを奨励し、漆樹栽培が一段と活発になり、今より約270年前に
村上藩士頓宮次郎兵衛により木彫堆朱・堆黒が藩内に広められ進歩発展した。
村上木彫堆朱が世に出て以来、その技法は今なお保持され昭和30年2月には
「新潟県文化財」に指定され、昭和51年2月に「国の伝統的工芸品」の指定を受けて
いる。
なお、近年になり新たに技法が生み出され現在では、堆朱・堆黒・朱溜・彩漆・金磨・
三彩彫といった6種の技法をひとくくりとして村上木彫堆朱はなりたっている。
堆朱会館にはこれまで3回ほど訪れている。
わが家には、結婚引き出物や永年勤続の記念品などでいただいた「花びん」「丸盆」
「茶托」などの堆朱がある。
伝統的工芸品を展示していた村上堆朱工芸館が閉店となったのは寂しい。
・番外:「うるしの日」漆山神社を参拝
「うるしの日」の11月13日、村上堆朱事業協同組合の職人らが、旧朝日村の蒲萄の
漆山神社を参拝、地場に伝わる堆朱産業の発展を祈り漆の苗木3本を植樹した。
うるしの日とは、
平安時代のこの日(11月13日)に、文徳天皇の第一皇子・惟喬親王が、京都・嵐山の
法輪寺に参詣した時に漆の製法を菩薩から伝授したとされる伝説から、日本漆工芸協会
では、昭和60年(1985)から11月13日を「うるしの日」に制定。
村上の街を歩き塩引き鮭の作りの見学はできたが、村上堆朱工芸館の閉店で堆朱工房を
見学ができなかったのが残念だった。
また一つ村上から伝統の灯が消えた・・・
塩引き鮭作りを見る (イラストを模写)