鎧潟干拓と用水路開削

kanazu362009-05-12

ことし夏新潟市で「水と土の芸術祭」が開催される。
日本一の米どころ新潟。
新潟市近郷の蒲原平野も田植えが最盛期を迎えている。
かっては西蒲原一帯は、海抜0m以下が20%を占める
低湿地帯で、「三年一作」といわた。
蒲原平野には、多くの潟がありまた大河信濃川阿賀野に囲まれ水害に襲われるなどの
水との闘いの土地だった。
西蒲原地区の農民は、三潟(鎧潟・田潟・大潟)を干拓し用水開削で低湿地帯を乾田に
変えることが長年の夢だった。
農民の力で鎧潟が干拓され新川が開削され用水路が開削され、低湿地帯が大圃場に
生まれ変わった。
干拓と用水路開削に苦労し水と闘った先人の碑が建立されていると知り5月4日見てきた。
・鎧潟干拓の碑(こ々に鎧潟ありき)
 ・鎧潟
  鎧潟は、多くの人たちの努力で昭和43年9月全面干拓され現在は鎧潟排水機場が
  田畑を冠水から守っている。
  ・干拓前面積 272.9ha ・着工 昭和33年8月 ・竣工 昭和43年9月
  ・干拓面積 272.9ha ・造成農地 234,7ha 
  ・潟残存水面 全面干拓 ・総工費 13億4千6百万円
 ・石碑と祠
  干拓された鎧潟には多くの石碑が建つ。
  ・鎧橋のたもとに
   「こ々に鎧潟ありき」碑(昭和43年1月建)
  ・鯉橋のたもとに
   「鎧潟干拓記念」碑(昭和43年9月日建)
   「鎧潟大圃場完成」碑(昭和48年3月21日建)
   「竣工記念」碑(昭和60年11月建)
  ・通称鎧潟公園内に
   「鎧潟拓記念 魚魂の碑」(昭和43年3月日建)
   「新川区記念碑」(昭和42年5月建)
   「新川用排水改良事業竣工記念」碑(平成元年3月建)
   遠藤集落の祠も祀られている。
・新川開発創業者供養塔(新潟市西区高山:蓮久寺)
 蓮久寺境内に新川開発創業者長岡領中野小屋村伊藤五郎左衛門など21集落の割元の
 名が書かれた供養塔が建立されている(長岡領16村・村上領5村)。
 石碑(昭和43年5月建立)には、三潟地方の治水は、蒲原全郡の運命にかかり水害を
 救って美田を開くことは先覚者の悲願だった。
 文化4年(1807)中の口川の決壊による大惨事は、幕府を動かし・・・。
 文化14年(1817)幕府から許可が下り、文化15年(1818)2月
 長岡領16名・ 村上領5名の庄屋により着工した。
 ・文政3年(1820)二樋付込み事業
 ・明治42年((1909))に煉瓦造り
 ・暗閘となる
 昭和30年(1955)には、西川を水路橋として立体交差する。
 (西川の下を新川が流れる日本でも珍しい立体交差する川)
 この新川の開発により三潟地方はじめ蒲原全郡は水害を免れ、水腐田は乾田となり
 豊穣の楽土と生まれ変わった。
 工費に投じた私財は回収できず多くの亡命の悲運に陥った。
 横田切れによる大惨事が政府を動かし、大河津分水路の掘削と開発事業へと・・・。
 新潟市高山の長岡藩領「蓮久寺」で毎年7月、西蒲原を湛水被害から守るため、江戸時代
 に新川を掘削した人々の功績をたたえる慰霊法要が行われる。
・用水路開削義人高橋源助之顕彰碑(旧西川町見帯)
 旧西川町曽根の見帯地区の公園内に「義人高橋源助之顕彰碑」が建立されている。
 石碑(昭和53年11月12日建立)には、その祖は甲斐から遁れ来て曽根見帯村に
 落着き姓を高橋と名乗った。
 源助曽根村の割元となって開墾を進め鋭意耕地の拡張に努力した。
 しかし、用水の便悪く折角の開田も水不足のために荒廃に帰しことがしばしばであった。
 源助はこれを憂えて割前村から約6キロの用水路を開削して、西川の水を引くことを思
 い立ち、長岡藩主に願い出た。
 源助は「失敗したときは首をかけて責任を取る」と約束し開削は認められた。
 源助と村民の努力で用水路は完成。
 1681年(天和元年)10月9日、通水式が行われたが、藩役人の妨害で水は流れず
 工事失敗の責任を取らされ源助はその場で打ち首。
 首は西川水中に深く沈んだ。
 しばらくすると、板をくわえた、恐ろしい形相の源助首が浮かび上がり、勢いよく用水に
 水が流れた・・・。
 源助の犠牲のお蔭で曽根二百町歩の耕地は救われ、明治27・28年の大干ばつの
 際には田植えの出来なかった村々が多かった中にひとり曽根近郷が災害から免れた。
・番外:新川暗閘(あんこう)の巨大銘板は何処に
 大正2年(1913)当時の最先端技術を駆使したレンガとコンクリートで建造された
 「新川暗閘」が完成した。
 暗閘は昭和30年(1955)役割を終え爆破解体された。
 新川暗閘には「新川暗閘」と「流濕毓秀」の文字が石に刻まれた巨大銘板があった。
 「新川暗閘」と刻まれた4枚のうち「新」「川」「暗」の3枚と施工業者名の刻まれた
 銘板が発見されたと知り5月6日見てきた。
 「新」「川」と請負者名「櫻組」の3枚は、新潟市西区中野小屋の元中野小屋村長椎谷宅
 の庭の土留めに使われ、「暗」の1枚は、新潟市西区内野町の樋木酒造の庭に置かれて
 いた。
 石の銘板にそれぞれの文字が刻まれている。
 大きさを測ると高さ126センチ・横121センチ・幅28センチ。
 「越後新川まちおこしの会」では、残る「閘」と「流濕毓秀」の5枚の巨大銘板の行方 
 を探している。
・番外:新潟市が「内野新川」を出版
 新潟市がこのほど新川開削や鎧潟干拓で農民の「悪水と土との闘い」を記した「内野
 新川」を出版した。
7月18日から始まる「水と土の芸術」に向け農民の「悪水と土との闘い」鎧潟干拓
新川開削と用水路開鑿が脚光を浴びる。

この田んぼも昔は潟だった (イラストを模写)