旧村落五ケ浜を歩く

kanazu362009-11-17

新潟市西蒲区役所主催の「浜辺のムラ・五ケ浜メグリ」が
11月15日開催されたので参加した。
あいにくの雨降りだったが21人が参加、地元の古老の案内で
旧村落五ケ浜を探訪した。
・旧村落五ケ浜
 五ケ浜は角田山西麓、日本海に面した砂丘上に位置し、三方を丘陵に囲まれている。
 元和4年(1618)の知行目録では29石余、天保6年(1835)の指出明細帳では
 高36石・家数270・人別1520(男717・女803)。
 田畑はほとんどなく、廻船業・漁業・塩浜稼ぎが中心の村だった。
 漁業・塩浜稼ぎが不良の年は他所(国)稼ぎで生計を。
 地名の由来は、五ケ所にあった集落を一村に集め「五ケ浜」と名付けた。
 明治21年の戸数は204・人口1557。
 明治22年4月1日の町村制施行にともなう合併により五ケ浜村に。
 明治34年11月1日角海浜村と合併し浦浜村に。
 現在の五ケ浜集落は、世帯数39・人口63。
・旧村落五ケ浜めぐり
 民家の庭先に咲く満開の冬桜が訪れた人たちを歓迎する。
 ・海岸(製塩と漁業)
  田畑がほとんどなく五ケ浜(浦浜)は、製塩と漁業が盛ん。
 ・遠藤総本家
  遠藤家は三根山藩の割元を代々勤めた。
  遠藤家の祖は、日蓮上人を鎌倉から佐渡に護送した鎌倉幕府の役人で日蓮聖人の
  教えに心服し弟子となり13代の遠藤定道が佐渡から五ケ浜に移り住んだ。
 ・篠原幸三郎家住宅(新潟市指定有形民俗文化財
  篠原幸三郎家住宅は、昭和49年(1974)に廃村になった「越後毒消しの里」角海浜
  集落の典型的な中流民家で、昭和53年(1978)に現在地に移築復元された。
 ・網走市長を輩出した山際家
  子孫が網走に渡り漁業で財を成し網走市長に。
 ・旧五ケ浜銀行頭取遠藤宅
  製塩と漁業で栄えた集落に銀行(五ケ浜銀行)があったのには驚き。
 ・明楽寺と政蔵の彫刻
  明楽寺は真宗大谷派の寺院。
  九州久留米の城主で、源平合戦に破れた主従7人がこの地に来て世を忍ぶ。
  後に親鸞聖人の教えに化導され五ケ浜に帰り一宇を建てたのが明楽寺のはじまり。
  五ケ浜大工の政蔵(ハゲ政)は、宮大工で彫りの名工といわれ明楽寺本堂の厨子
  金比羅社の御堂の彫刻などを彫った。
 ・神社仏閣
  浦浜小学校周辺に八幡宮金比羅社・稲荷社が並んで建てられ、その近くに釈迦堂・
  観音堂もある。
  稲荷社のキツネが子ギツネを抱いているのが印象的。
 ・遠藤米七と浦浜小学校跡
  五ケ浜生まれの遠藤米七は樺太開拓で財を成し、米1俵が10円にも満たなかった時
  代に3万5000円の私財を投じて小学校を寄付した。
  昭和16年(1941)に銅像が建てられたが、戦時中に供出させられ、今は台座だけが
  学校跡地の隅に残っている。
  校庭にあった二宮尊徳像も今はなく台座だけが残っている。
・五ケ浜文化と他所(国)稼ぎ行商の惨事
 ・五ケ浜甚句と民謡「会津磐梯山
  五ケ浜村からは他所(国)稼ぎや行商で多くの人が会津方面へ出かけた。
  こうした他所(国)稼ぎや行商を通じて、文化を伝えまた伝えられた。
  一説によれば、福島県の民謡「会津磐梯山」の元唄は「五ケ浜甚句」といわれている。
 ・他所(国)稼ぎや行商の人たちを襲った川舟転覆事故
  昔会津領だった旧三川村の阿賀野川で起きた転覆事故の犠牲者を供養した「哀溺鑑戒
  之碑」が三川村の国道49号線脇に建立されている。(2008年9月10日見学)
  弘化4年(1874)12月16日、川舟が旧三川村吉津の難所といわれた貝喰付近で
  突風を受け、あっという間に転覆した。
  乗客60人近くが冷たい川に投げ出され、10人あまりが救助されが、44人が水死する
  という大惨事となった。
  犠牲者の中にはイワシ売りと大工仕事に出かけていた五ケ浜の21人も。
旧村落五ケ浜は、石垣に囲まれ土蔵の多く残る家並みが続く。
先人が北海道に渡り漁業で財を成した人たちが故郷に錦を飾った往時を偲ばせる。
春になったら歴史ある集落を一人でゆっくりと散策したい。

ここに銀行が (イラストを模写)