新潟県内の藩めぐり

kanazu362010-12-08

11月29日の新聞に新潟県文化財に指定されている
柏崎市椎谷の「椎谷陣屋跡」に、歴史を記した看板が立てられ
除幕式が行われたと出ており12月4日見てきた。
江戸時代の藩に興味を持ち新潟県内の藩を調べ藩めぐりに
出かけた。
・江戸時代の藩数と府県別の藩数
 ・江戸時代の藩数
  江戸時代の藩は276藩。(但し、275藩という説もある)
 ・府県別の藩数
  276藩を府県別に分類してみると、兵庫が16・千葉が15・茨城が13・岡山、愛知、新潟の3県が11。
  東京・沖縄・山梨がゼロ。
新潟県の藩と石高
 ・村上藩:5万石 ・黒川藩:1万石 ・新発田藩:10石 ・三日市藩:1万石 ・村松藩:3石 ・長岡藩:7万4000石 ・三根山藩:1万1000石 ・与板藩:2万石 ・椎谷藩:1万石 ・高田藩:15万石 ・糸魚川藩:1万石 
 ・藩とは
  藩とは、江戸時代に大名が徳川幕府から、その土地を領有し、支配することを認められた仕組み。
 ・大名とは
  大名とは一万石以上の領主を指す。
・藩めぐり
 60歳の定年まで佐渡を除く新潟県内の市町村に勤務したので藩(城)めぐるをする機会があった。
 ・村上藩
  娘夫婦が村上に勤務していたので、村上城跡臥牛山に登った。
  村上藩は慶長3年(1598)に上杉景勝会津に移封された後、村上周辺の領地を村上頼勝が9万石で入封したのが始まりとされる。
  その後数家の大名が城主となる。
  享保5年(1720)に内藤弌信が5万石で入ると明治維新まで内藤家が藩主を歴任し藩政を行った。
  戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に組し新政府軍と対抗した。
 ・新発田藩新発田市大手町・9月24日)
  越後一国を領していた上杉家を会津に転封させた後、秀吉は堀秀治を越後春日山に入れ、その与力として、溝口秀勝新発田に、村上頼勝を村上に付属させた。
  その後、堀家・村上家とも改易となったが、新発田の溝口家は一家支配のまま無事に明治に至る。
  石高も6万石であったが、2代宣勝の時に弟義勝に1万石を分与し、5万石になったが11代直溥の代になって、10万石への高直しを幕府に申請し認められた。
 ・村松藩五泉市村松・12月5日)
  五泉に勤務していた時村松城跡公園を訪ねた。
  江戸時代堀家3万石の城下町として栄えた村松藩
  堀家の居城跡2.2haは現在の城跡公園となっている。
  村松藩寛永16年(1639)、堀直寄の次男・堀直時が安田3万石を与えられたことから始まる。
  寛永21年(1644)5月、直時の子・堀直吉の時代に領地替えが行なわれて陣屋を安田から村松に移したことから、正式な村松藩が始まった。
 ・長岡藩
  藩主は初めに堀氏(8万石)、のちに牧野氏に交替。
  牧野氏の家格は、帝鑑間詰めの譜代大名で石高は、はじめ6万2000石、後に加増されて、7万4000石になった。
  戊辰戦争奥羽越列藩同盟側で敗北したため、2万4000石に減封。
  明治3年(1870)廃藩。
 ・三根山藩新潟市西蒲区峰岡・12月4日)
  「米百表」の故事で有名な三根山藩は、寛永11年(1634)長岡藩初代藩主牧野忠成が4男の定成に6000石で分家させ旗本になったのが始まり。
  文久3年(1863)、11代牧野忠泰の時に石高1万1000石となり大名になった。
 ・与板藩(長岡市与板・12月4日)
  与板町に3年勤務し、宿舎は与板陣屋の裏にあった。
  与板陣屋は戦国時代直江氏が居城した与板城とは別。
  寛永11年(1634)に主牧野忠成の次男牧野康成が1万石を分封されて与板に陣屋を築いたのが始まり。
  元禄15年(1702)牧野氏が小諸へ転封となった後、宝永2年(1705)に井伊直矩が2万石で入封した。
  2万石の大名ながら城持大名の格が与えられず、文政3年(1820)井伊直朗の時に2万石の城主格の城持ち大名へ昇格し、以後井伊家が在城し明治を迎えた。
 ・椎谷藩(柏崎市椎谷・12月4日)
  新潟から国道402号線経由で352号線を走り椎谷岬トンネルを抜けると椎谷集落に出る。
  椎谷陣屋跡は国道から少し離れた山の上にあった。
  藩祖は名臣として名高い堀直政の四男・堀直之。
  元和2年(1616)7月、直之は大坂の陣による軍功が認められて、越後国沼垂郡に5500石を与えられ、椎谷に陣屋を置いた。
  直之の後を継いだ堀直景の時代、関東の地に1万石を与えられ、大名となった。
  元禄11年(1698)、第4代当主・堀直宥が越後の沼垂・三島・蒲原三郡内において1万石を領し、椎谷に居住したのが正式な椎谷藩の始まりである。
  歴代藩主は江戸定府が常であった。
 ・高田藩上越市高田・10月21日)
  高田は故郷であり高田城跡公園には何回も足を運んでいる。
  高田藩の創設は、徳川家康公の六男松平忠輝公が1614(慶長19)年、越後高田に築城、75万石の高田藩の歴史が始まる。
  忠輝は、入封5年後の元和元年(1615)8月、家康から勘当され、翌2年7月所領を没収の上、伊勢朝熊(三重県伊勢市)へ配流となった。
  高田藩最後の城主は譜代大名榊原家。
  榊原家の藩祖は、徳川四天王の一人榊原康政
  転封を重ね寛保元年(1741)10月姫路15万石から高田15万石に領地替えとなり約130年間にわたって高田藩を治めた。
  榊原家は高田で明治維新を迎えた。
 ・糸魚川藩
  糸魚川に4年勤務しので清崎城のあったことは知っていた。
  糸魚川には江戸初期、堀秀治の家臣が築いた清崎城があったが、高田藩の支城となったのち破却。
  その後有馬氏が初代となって糸魚川藩が成立、本多氏を経て享保2年(1717年)に越前松平氏が入り、陣屋を築くが定府大名だったため居住せず。
  幕末になって藩主が糸魚川に居住することとなり、旧城跡に新たに陣屋を築いた。
  明治2年、清崎藩と改称するが、間もなく廃藩となった。
  糸魚川藩の初代藩主は松平直之(1万石)は、福井藩結城秀康の曾孫・松平直堅を祖とする系統で代々定府で日向守を名乗った。
新潟県内11藩のうち残念ながらまだ黒川藩と三日市藩訪ねていない。
いずれかの機会に訪ねてみたい。

ここが椎谷陣屋跡 (イラストを模写)