新潟県の塔と三重塔・五重塔めぐり

kanazu362011-04-02

胎内市役所のロビーに巨大な五重塔の模型が置かれているとの
新聞記事を見て3月31日見学してきた。
五重塔や三重塔に興味を持ちインターネットで新潟県の塔を
調べ、乙宝寺の三重塔と酒呑童子神社の五重塔を見てきた。
新潟県内の五重塔と三重塔
 県内には、乙宝寺(三重塔:胎内市)・越後国分寺(三重塔:上越市)・酒呑童子神社(五重塔燕市)・長谷寺(多宝塔:佐渡市)・妙宜寺(五重塔:佐渡市)がある。
・巨大な五重塔の模型(胎内市役所・3月31日)
 胎内市役所のロビーに高さ約4m・幅約1mの巨大な五重塔の模型が置かれている。
 塔は市内の元大工菅原嘉一(73)さんが制作し寄贈した。
 菅原さんは、4・5年前から趣味で乙宝寺の三重塔など歴史的建造物の模型を作っている。
 今回寄贈した五重塔は、山形県鶴岡市にある国宝羽黒山五重塔をモデルに半年ほどかけて完成した。
 サイズは実物の10分の1。
・乙宝寺の三重塔(旧中条町乙・3月31日)
 乙宝寺の創建は、天平8年(736)聖武天皇の勅願により、行基菩薩と婆羅門僧正の二人が開山したと伝えられる。
 三重塔は、村上城主村上忠勝が願主となり、慶長19年(1614)起工、元和6年(1620)村上城主堀丹後守直奇のとき完成した。棟梁は京都の小島近江守藤原吉正。 
 棟頂の九輪に、貞享年間(1684〜87)の再興の刻銘がある。
 塔の建築様式は、純和様の三層塔婆(高さ約23.1m)で、内外とも絵様・繰形など装飾をはぶき簡素であるが、全体の形が荘重で、しかも均衡がうつくしく、周囲の老杉と調和して重要文化財としての風格を示している。
 大正12年(1923)3月28日特別保護建造物に指定され、昭和26年〜28年に解体修理し、往時の姿に復元された。
 大正12年3月28日、国重要文化財に指定さた。
 大日堂(再興本堂)に、塩谷斉藤明夫さんが昭和57年4月に寄進した「三重塔」が飾られている。
 脇の木札には「塩谷円福寺住職斉藤善明海師之長男明夫氏大工となり、この塔を製作し寄進したもの也」と書かれている。
酒呑童子神社の五重塔(旧分水町国上・4月1日)
 「道の駅国上」から徒歩約5分で酒呑童子を祀る酒呑童子神社に着く。
 境内に五重塔が建つ。
 神社境内に五重塔とは珍しい。
 神社の右側に「酒呑童子伝説」の看板が立ち、左側に「縁結之神」の石碑も建つ。
 看板には「酒呑童子はこの分水町砂子塚に生まれ、少年時代に国上寺で外道丸と呼ばれ稚児として過ごした。
 生来美男子であったため、近隣近郷の娘達から恋文が山のように届いたが、開くことなく修行に励んでいた。
 ある日、返事の来なかったことを悲観した娘が己の命を絶った。
 そのことを知らされた外道丸が、恋文の詰まったつづらを開けると紫色の煙が立ち昇り、外道丸を鬼の顔に変え“酒呑童子”となってしまった」と・・・。
 五重塔は1997年(平成9)、分水町の大工さんが趣味で数年の歳月をかけ手作りで完成したといわれている。
越後国分寺の三重塔(上越市五智)
 故郷では越後国分寺を親しみこめ「五智国分寺」と呼び、小学校の遠足コースだったので何回も三重塔を見ている。
 聖武天皇が諸国に建立した国分寺、本寺は越後国分寺の寺号を継いだ名刹
 親鸞聖人の旧跡でもある。
 越後国分寺三重塔(県指定文化財・江戸時代後期安政3年(1856)上棟、昭和 52年完成・桟瓦葺・高さ25.85m。
 もとの三重塔は寛政6年(1794)に焼失した。
 三重塔を現在の姿に建て直したのは宮大工、曽武川常右衛門と江崎の長三郎。
 安政3年(1856)より約20年かかったが未完成のまま中断していたが、昭和52年に再開され一応の完成みた。
 初層、蟇股の位置には高田の名工、石倉(後藤)正義銘の十二支の彫刻がはめ込まれている。
巨大な五重塔の模型が胎内市役所のロビーに飾られているとの記事に魅せられ県内の三重塔・五重塔めぐりに出かけた。

三重塔を見上げる (イラストを模写)