動く市政教室「海に水を流す」

kanazu362008-11-18

11月12日、新潟市主催の動く市政教室「海に水を流す」に
参加した。
配られた資料には、新潟市は川が運んできた土砂によりできた
平野で、海面より低い地域が多くあります。
美しい田園風景の広がる西蒲原一帯も、海抜0m以下が20%を占める低湿地帯で、
かっては「三年一作」といわれるほど、水に苦しみま。
西蒲原の農地と地域を水から守る排水機場の司令塔・西蒲原排水中央管理所と鎧潟
排水機場と澤将監の館を見学、囲い土手の話を聞き、地域の歴史と先人の苦労を知る。
バスは参加者23人を乗せ9時20分新潟駅を出発した。
・西蒲原排水中央管理所
 一階の「西蒲原土地改良事業展示室」には、
 ・西蒲原農業の歴史
  低湿地帯のため水はけが悪く、腰まで水につかり「三年一作」といられた田圃で農作業に
  励む農家の姿が写し出されている。
 ・土地改良事業の歴史 
  蒲原地域の人たちは悪水と河川の氾濫に苦しめられ、江戸時代から新川の開削や
  信濃川大河津分水の開削が長年の悲願だった。
  新川の掘削事業の経過が詳しく説明されている。
 ・現在の西蒲原
  西蒲原地域の約3分の1は標高−1.4mから+1mほどで日本海の水面より低い。
  西蒲原は現在、新川排水機場・七排水機場・鎧潟排水機場・田潟排水機場・升潟
  排水機場などの稼動により低湿地帯が乾田化され美田に生まれ変わっている。
・鎧潟排水機場
 西蒲原地方には一面に無数の潟があり、アシやガマの繁る湿地帯だった。
 そこは農業用水の捨て場として利用されていた。
 降った雨は低い三潟(鎧潟・田潟・大潟)に集まり、流れ出るところのないまま溜まり水と
 なっていた。
 大雨の時などは、田畑までこの「悪水」が押し寄せてきて作物に大きな被害をもたらし
 農民を苦しめてきた。
 鎧潟は、多くの人たちの努力で昭和43年9月全面干拓され現在は鎧潟排水機場が
 田畑を冠水から守っている。
 ・干拓前面積 272.9ha ・着工 昭和33年8月
 ・竣工 昭和43年9月 ・干拓面積 272.9ha 
 ・造成農地 234,7ha ・潟残存水面 全面干拓 
 ・総工費 13億4千6百万円
・澤将監(しょうげん)と囲い土手(中之口村誌・越後なかのくち物語から抜粋)
 西蒲原中之口村に、かって水と闘いながら新田開発に力を注ぎ大庄屋となった武士が
 いた。
 甲斐武田信玄の家臣であった澤将監が武田氏滅亡後、上杉氏を頼って越後に入り、
 慶長17年(1612)打越村の小林家に世話となりこの地に住みついた。
 将監は、甲斐の国で身に付けた土木技術を生かし、「囲い土手」を築き悪水を排除
 しながら新田開発に力を注ぎ2千石の村にするという偉業を成し遂げた。
 ・元和2年(1616)には村庄屋に任命された
 ・慶安2年(1616)には村上藩領地の村々の庄屋連中を取り締まる打越組大庄屋 
  に任命された
西蒲原地方の人々が悪水と闘い、悪水を海に流し低湿地帯を乾田化し美田に生まれ
変えていった歴史と先人の苦難の道のりを知った。

悪水が抜かれ美田に変わった鎧潟を見つめる (イラストを模写)