藩校展「長岡崇徳館と与板正徳館」

kanazu362009-06-12

10日の地方地新潟日報に旧新津市立新関小学校が
新校舎建設に伴い1938年建築の校舎が取り壊される。
8日、取り壊しを前に全校生徒が思い出の校舎の写生会が
行われた写真が紙面を飾る。
長岡市の中央図書館で、江戸時代に長岡市内にあった藩校を紹介する「長岡藩校崇徳館・
与板藩校正徳館の教育」展が開催されており5月29日見てきた。
長岡には長岡藩の藩校崇徳館と旧与板町(現長岡市)に与板藩の藩校正徳館があった。
会場には「藩校崇徳館・正徳館の教育〜心と英知を育んだ書物の世界〜」と題し長岡市
中央図書館・文書資料室・科学博物館や与板歴史民俗資料館、阪之上小学校などで所蔵
する漢籍や教科書類、長岡藩の崇徳館及び国漢学校、与板藩の正徳館に関わる資料
など、長岡地域の藩校及び近代教育関係資料が展示されている。
・長岡藩の藩校崇徳館
 崇徳館は、江戸時代後期の文化5年(1808)に9代藩主牧野忠精によって開校された。
 崇徳とは、「徳」を「宗ぶ(たつとぶ:尊ぶ)」という意味。
 牧野忠精は、幕府の要職である京都所司代や老中をを勤めた。
 崇徳館からは河井継之助小林虎三郎が育った。
 小林虎三郎は、三根山藩からの救援米百俵をもとに、明治2年(1869)5月1日、
 昌福寺の本堂を借りて国漢学校を開校し多くの人材を育て上げた。
 崇徳館の教育は「国漢学校」や「長岡洋学校」へと引き継がれ、現在の「長岡高等学校」・
 「阪之上小学校」「長岡赤十字病院」の礎となった。
・与板藩の藩校正徳館
 江戸藩邸には以前から学問所が開かれていたが、9代藩主井伊直充が万延元年
 (1860)に藩校(学問所)である「正徳館」を開館した。
 戊辰戦争で与板城が焼失した影響で一旦閉校となったが、上野御徒町で漢学塾を開いて
 いた小橋多助を招き、その指導の下で明治2年(1869)10月29日に開校式を行い
 再興された。
 明治4年(1871)廃藩置県に伴い与板県となると「与板県学校」と改称。
 明治5年(1872)7月に廃止された。
 平成17年1月1日新潟県立与板高等学校が新潟県立正徳館高等学校と改称した。
・番外:三根山藩の藩校入徳館
 「米百表」の故事で有名な三根山藩は、寛永11年(1634)長岡藩初代藩主牧野忠成が
 4男の定成に6000石で分家させ旗本になったのが始まり。
 文久3年(1863)、11代牧野忠泰の時に石高1万1000石となり大名になった。
 藩校の入徳館はこの時牧野忠泰が創設した。
 現在入徳館の跡地に入徳館野外研修所が建つ。
新潟県内の藩校
 ・糸魚川藩糸魚川市:明道館) ・黒川藩(旧黒川村:弘道館
 ・椎谷藩(柏崎市:修道館) ・新発田藩新発田市:道学堂)
 ・高田藩(旧高田市:修道館) ・長岡藩(長岡市:崇徳館)
 ・三日市藩(新発田市:遊芸館) ・三根山藩(旧巻町:入徳館)
 ・村上藩村上市:克従館) ・村松藩(旧村松町:自強館)
 ・与板藩(旧与板町:正徳館) 
会場には、江戸時代長岡藩・与板藩・三根山藩藩士達が学んだ当事の教科書などの
書物約750冊が並ぶ。
会場のビデオからは、「子曰(しのたま)わく、学びて時にこれを習う、また説(よろこ)
ばしからずや」「朋遠方より来たるあり、また楽しからずや」「人知らずして慍(うら)みず、
また君子ならずや」などと論語素読する子どもたちの声が流れてくる。
6月20・21日、第8回全国藩校サミットin長岡「未来へつなげ!藩校教育と米百俵の精神」
長岡市立劇場で開催される。

大声で子どもたちが論語素読 (イラストを模写)