石油産業遺産「石油の里」巡り

kanazu362010-06-09

2008年に5月10日が「地質の日」と制定された。
地質の日の5月10日は、明治9年(1876)ライマンらによって
日本で初めて広域的な地質図、200万分の1「日本蝦夷地質
要略之図」が作成された日。
また、明治11年(1878)のこの日は、地質の調査を扱う組織(内務省地理局地質課)が定められた日。
石油の世界観友の会では、地質の日制定記念イベントとして6月5日石油産業遺産「新津油田石油の里」巡りをに実施したので参加した。
新津油田と石油王中野貫一
 金津地区の新津油田跡が2007年5月10日「日本の地質百選」に認定され、2007年11月30日経済通産省の「近代化産業遺産群」に認定された。
 ・新津油田
  新津油田は旧新津市金津地区に存在した油田で丘陵地帯を中心に、江戸時代以前から平成にかけて採掘が行われ日本一の産油量をほこった。
  往時の繁栄振りを歌った軽便唄が石碑に刻まれている。
  ”仰ぎ見よ 峰から峰へと宝の櫓 日に日に汲み出す2千石 村は栄えて富をなす
誰がつけたか 金津村”
  明治39年の産額は80万8635石で日当たり2200石だった。
・日本の石油王「中野貫一ものがたり」から
  弘化3年(1846)、金津村の庄屋の家に生まれた中野貫一は、7歳の時から7年間新潟県医学会の先駆者といわれた本多文明・敬斎父子の家塾で学びました。
  父の死後、14才にて庄屋職を継ぎ公務を努めるかたわら、明治7年(1874)から本格的に石油事業をはじめ、数々の困難を克服しながら、日本石油・宝田石油と並ぶ大産油業者に成長し、日本の石油王と呼ばれるようになりました。・・・
・「石油の里」巡り
 金津地区周辺の丘陵には現在も石油採掘に使われた文化遺産が多く残っている。
 ・石油井戸 
  石油の里周辺には現在も多くの石油井戸が残る。
  井戸の前に掲示板がありそれぞれに「番号」「深さ」「掘削年度」が書かれている。
  掘削は「綱式機械掘り」「上総堀り」がある。
 ・石油をふくむ地層(金津層)
  山中に「金津油田のおいたち」と書かれた看板がある。
  はげしい海底火山活動(2500万年−1500万年前)が終わり深い海には石油のもとになるプランクトンの死がいなど有機物を多く含んだ泥が堆積しました。・・・
  石油が含まれている地層「金津層」。
  石油が文字として歴史に現れるのが「日本書紀」で「越国(こしのくに)から燃土(燃ゆる土)、燃水(燃ゆる水)が献上された」とある。
  この越国が秋葉区の新津地区であったかは不明ですが、明治時代は全国有数の出油地帯でした。
 ・ポーピングパワー
  ポーピングパワーは、回転運動を往復運動(上下運動)に変え、石油井戸につながる引張線に往復運動を伝える動力装置。
 ・継転機
  継転機はポーピングパワーからつながる一本の引張線を複数(2〜5本)に分け、異なった方向の石油井戸へ動力を伝える装置。
 ・開基坪
  鎌倉時代の1221年に金津小二郎資義が築城の際に濠を掘ったところ、二つの神像が掘り出され、黒い水(石油)が湧き出たと伝えれれている。
  神像は堀出神社として祀られ、湧き出た油の池は開基坪とよばれ昭和初期まで石油が湧き出ていた。
新津油田は丸泉石油興産(中野石油)が、平成8年度で閉山、翌9年度には協和工営も閉山しすべての石油採掘は終結した。
新津市(現新潟市秋葉区)では、新津油田の歴史的文化価値を認め、新津丘陵の地質、地層を含めた産業遺産として後世に残すために、中野家からすべての資産を譲る受け石油産業遺産「石油の里」として保存されている。
長岡市の東山油田が今年中に正式に閉山する。
閉山に向けた施設撤去の作業が始まった。
東山油田の保存を求める声が高まっている。
しかし、保存までには様々な難問が山積している。
難問をクリアし新津油田のように産業遺産として保存されるだろうか。

あそこにも石油井戸が (イラストを模写)